中世ヨーロッパの城と塔

ジャン・メスキ著「ヨーロッパ古城物語」より。

第1章「中世ヨーロッパの城と塔」

 中世ヨーロッパの城は、最初は土と木でできた簡素な防御施設として誕生し、その後、石材で建てられるようになった。そして土を小高く盛った「モット(盛り土)」や、天高くそびえる「ドンジョン(主塔)」がつくられるようになり、城は領主たちの権力の象徴となっていった。
(中略)城は(中略)その地方の権力の中枢であり、行政の中心であり、領主の住居でもあった。その基本的な性格は(中略)敵の襲撃から身を守るための「堅固な要塞」であった。
(中略)中世も半ばになり、初期の封建制度がしだいに形を整えるようなった11世紀、権力の象徴であり、権力の座である「城」がヨーロッパに出現した。

著者は「城」を各パーツ毎に、「主塔」、「側塔」、「城門」、「城壁」、「矢狭間」、「張出し櫓」等が、それらの元々の「防御」という目的(「機能」)から離れて、「象徴」に変わっていった過程を詳しく調査している。たとえば、「主塔」は、元々は(11世紀から12世紀は)「防御と居住の両方を目的とした建物」だったけれど、12世紀末には「象徴的な建造物」になった(ここに居住しなくなった)。また、それほど大きくない城(「主塔」のない城)では、「防御」の施設である「城門」に「門塔」を設けて、これを「象徴」としている(「主塔」の代わりとしている)。

「側塔」が姿をあらわすようになったのは、12世紀後半からで、「側塔の数によって軍事力が象徴的に表現されるようになった」。「矢狭間」は、「これは存在するだけで軍事力の証明となったため*1、ときには弓を射るには高すぎる位置につくられることもあった」。その他、「張出し櫓」、「胸壁」、「石落とし」等も、「これらはみな、たしかに実際の防御機能をもっていたが、それ以上に、領主の権力を誇示することがおもな目的となっていたのである」。また著者は、それら「権力の象徴」が、戦争を予防する効果があったことにも言及している。

第2章「城の形としくみ」

 12世紀後半になると建築主、とくに国王たちは、城の形を理念にもとづき構想するようになった。そうした変化は(中略)十字軍の遠征などによって知られるようになった、地中海沿岸地方にのこる古代の建築物から影響を受けたものだった。

(中略)工事を手がける建築家たちは、建築主のさまざまな要求に合わせて、しだいに複雑な設計を行うようになっていった。その結果、側塔をもうけることが一般的になったが、それ以上に重要だったのが、城壁は正多角形が標準形にされるようになったことであろう。

(中略)この様式は、最終的には円形の城壁にまで行きついた。*2

(中略)12世紀以降、できるだけ幾何学的で左右対称な設計をすることで、様式がもつ象徴性を表現しようとする傾向はどの地方でも見られた。(中略)城の形の完全性を追求することは、封建制度にもとづく権力を表現するために必要不可欠だったのである。

(中略)ただ実際に採用された形のなかで、もっとも一般的だったのは、やはり四角形である。この様式は建設が簡単だったため、古代ギリシアの要塞でも広くもちいられていた。

(続く) →「城の暮らしの日常

ちなみに〜

 現在わたしたちが見ることのできる城の大部分は、荒々しい石の面がむき出しになっている。ところが、中世の城においては、まったくそのようなことはなかった。(中略)当時はきれいに漆喰で塗られていたのである。

〜とのこと。白か淡い黄土色であったらしい。

*1:「矢狭間は一種の抑止力としても機能していた。(中略)塔や城壁にたくさんの矢狭間があれば、実際にはその背後に射手が弓を構えていなくても、そこから攻撃されるかもしれないという不安感を敵にあたえることができた」

*2:旧ブログ(babyism)の「誤算-4」の記事参照、「誤算-1」の記事も