肉体塾at美学校

きのう(31日)、神保町の美学校での、松蔭浩之宇治野宗輝クラスの卒業制作展(だと思う)「肉体塾」を覗く。
映像、インスタレーション、爆音パフォーマンス等、それにしても女の子が元気だよなあ、こういうにおいのする「学校」では。
課題として「キュレーション」やることになった生徒さんの企画は「新撰組」。松蔭・宇治野&会田誠三名によるライブパフォーマンス(書)。会田誠が「誠」と大描きした以外、テーマと内容に接点なし(でも面白かったけど 笑)。
ちょっと社会人の行動範囲を外れ、学生さんの中に入っていくだけで、現代美術の先端の人たちの活動に、タダで(というか焼酎かなんかやりながら)触れられてしまう。ありがたいことである。これも松蔭先生の分け隔てない、友愛のなせる技なのだ。
と、日記には書いておこう

バラエティ空間について

さきに、稲垣メンバーによるバラエティ「ほんとにあった怖い話」について違和感を表明したことがあったけれど、はてなダイアリー-来襲http://d.hatena.ne.jp/matterhorn/20040311読んですごく腑に落ちた。

そこから伺い知れるのは、僕たちがそれほどまでに「リアクション」ということに対して自覚的にならされてしまっていたことだと思う。少なくともこの言葉の発信源であるところのテレビバラエティの世界においては「リアクションを困らせない」ということが以降鉄則のように機能していく。リアクションを困らせないタレント、リアクションに困らないタレントがバラエティ要因、と見なされ使われ続ける。いまや「タレント」という言葉は「リアクションに困らない才能」を意味せんがほどだ。

つまりテレビとはまさに、感情のリアクション化を促進するマシンであり、幼少期の子供が感情というものを形作る過程で、それに多く触れることで、本来言語化されない多様な内部が「リアクション」という単純な反応に置き換わってしまう危険性をはらむということなのだった。

しかし「感情のリアクション化」は本来、映像・演劇表現にとっては必須のことがらでもあって、だがその複雑さや新たな切り取り方を提示することがジャンルの進化であったはずの映画・演劇におけるリアクションにさえ、テレビ的・バラエティ的・現代的なリアクションが影響をあたえていて、それをふまえて語らないことには現代日本の映画はいかんのではないかと論考する、id:matterhornさんの日記は面白い!特に渡辺謙の涙目についての話http://d.hatena.ne.jp/matterhorn/20040328は、黒沢明映画での仲代達也が、かつていかに「大根」と揶揄されたかすっかり忘れ去られた昨今においてこそ、指摘されるべき視線であると思える。

乙女再生計画

という話をふまえた上で、また「肉体塾」の、今度は生徒さんの作品にもどるけど、なかで赤い提灯をたくさんぶら下げたやつがあって、そこにはそれぞれ短冊が吊るされていて、表側にはいわゆる紋切り型の「ギャル言葉」が多種書かれている。で裏側は全て一様に「即マン」。タイトルが「乙女再生計画」。
リアクション空間に漂うSexとしてのギャル、ってなんか薄ら寒くなるくらいのリアルをつかみながらも、でもまあ「再生」させようとする愛があるのかなあ。美しい展示だったし。
作者のお嬢さんには「あなたが将来大物になって、森ビルで個展を開こうとも、必ず『よう!即マン!』って呼んでやるぜ」とオヤジどものセクハラ発言が浴びせかけられたり。なんて言い出したのは俺だ、ごめん。

参考(ギャル頭の勉強);chikiさんの読むDeepLoveアユの物語
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20040402