「天国で最も偉い者」

 「この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」(マタイ18:4)

 弟子たちは、天国で最も偉いのは誰であろうかと、ちょうど議論していた。彼らの意見は一致しなかった。ある者は自分自身に名誉を帰し、他の者も自分を高めたいと思っており、弟子のうち誰一人として、来たるべき出来事をはっきりと理解したり、現在の状況の厳粛さを受け入れる心の準備ができていなかった。彼らには、過越の祭りに参加する用意ができていなかったのである。
 キリストは悲しい思いで彼らを見渡された。このお方には弟子たちの目前にある試練が分っており、このお方の愛に満ち溢れた心が優しい憐れみと同情のうちに、弟子たちに注がれた。弟子たちに対する愛のあらわれとして、キリストは「手ぬぐいをとって、腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいで足をふき始められた」が、これは弟子たち全員に対する大きな譴責であった。……
 「こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、『わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである』。」……
 わたしたちは謙遜の行為によって印象深い教訓を教えられている。キリストは、神のみ前にへりくだって歩むことを、神が御子という賜物によってわたしたちのためにしてくださったことに気づく必要があることをわたしたちに示された。キリストは、弟子たちが最後の晩餐で自分たちに与えられた謙遜についての教訓を決して忘れはしないことを知っておられた。ご自身が奉仕の最もへりくだったかたちを取ることによって、キリストは、十二弟子に与えることのできた最も厳しい譴責を彼らに与えられた。
 マタイ18章には謙遜についてもう一つの教訓が記録されている。み言葉の中にあるこれらの教訓はわたしたちへの訓戒として与えられている。これらから教訓を受けることを怠る人々には言い訳の余地がない。
 弟子たちは「イエスのもとにきて言った、『いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか』。すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである』。」
 神と共にへりくだって歩むことにより、わたしたちは敵がわたしたちに対して有利な立場を取ることができない立場に自分自身を置いているのだということに多くの者は気づいていない。……わたしたちが子として訓練と教えを受けるために自ら進んでへりくだる時だけ、神はわたしたちをご自分の栄光のために用いることがおできになる。(原稿102, 1904年)


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