「キリストの価の高い宝石」

  「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。」

 天の王国は「高価な真珠一個を見い出すと、行って持ち物をみな売り払い、そしてこれを買う」「良い真珠を捜している商人」のようなものであると表現されている。
 このたとえ話は、ただ単に天の王国を求めている人にあてはまるだけではなく、またキリストがご自分の失われた子らを捜し求めておられるという二重の意味を持っている。罪を犯すことによって、人はその神聖な純潔を失い、自分をサタンにささげてしまった。神のひとり子てあられるキリストは、人間の贖いのために自ら誓いを立て、カルバリーの十字架の上で人の身代金を支払われたのである。主は罪に落ちなかった諸世界、天にあって仕える聖天使達の集まりを離れられた。人類がご自分から遠ざけられている間は、満足することがおできにならなかったからである。天の商人であられる方は、王衣と王冠をかたわらへ置かれる。全天の指揮者であり、王子であられるけれども、主は人性という衣をご自身にまとい、のろいによって傷つけられ、無感覚にされた世界においでになる。失われた一個の真珠を捜し出し、不従順によって堕落した人を探すために来られるのである。…
 主は、がらくたの中にうずもれているご自分の真珠を発見される。人間の心は利己心で包まれ、サタンの暴虐によって縛られている。しかし主は、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを語り伝えるために、暗黒の中から人間を引き上げられる。私達は神と契約を結ぶ関係に入ることを許され、ゆるしを受け、平和を見い出すのである。イエスは失われた人類という真珠を見つけ、ご自分の王冠のもとの場所へそれをおもどしになる。…
 彼は最も罪深く、最も堕落した者に希望をお与えになる。主は「わたしに来る者を決して拒みはしない」と仰せになる(ヨハネ6:37)。魂が救い主を見い出す時、救い主は良い真珠を見い出した商人としてお喜びになる。主の恵みによって、魂が天の王国にふさわしく磨かれた宝石のようになるまで、主は働かれる。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである。」(Y11895.10.10)

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