青棒恐るべし!!

先日の祝賀採集会の昼食時、参加メンバーの方より塊標本の切断面の仕上げに、酸化クロムを使用すれば良いと詳しい研磨方法をご指導頂いた。今日早速手持ちの青棒を、電動ドリルのパフに塗付け、研磨してみた。水ペーパー#3000番でも成しえなかった鏡面仕上げがいとも簡単に出来てしまった。何とも驚きの結果に、今までの苦労が馬鹿らしくさえ思えた。「知らぬが仏」とは良く言ったものだ!
伊賀上野城(別名:白鳳城)
この城は、慶長十三年、筒井定次の改易により築城の名手とされる藤堂高虎が入封し城の大改修が行われる。当時、層塔型の五層天守を建設しが慶長十七の災害の為、天守は倒壊してし、その後は武家諸法度による築城禁止の命により再建される事はなかった。画像の天守閣は現代に建てられた模擬天守で、内部は歴史資料館と成っている。中でも個人的に注意を引いたものに、展示品の藤堂家伝来(家臣拝領品)の藤堂家家紋入りの漆塗り重箱だ。実はこの重箱、全く同じものが我が家の先祖伝来の家宝の1つに存在する。我が苗字の出自は江戸期は讃岐国、それ以前は不明だが、どうも藤堂家に縁が有るのではと近頃分って来た。また次の画像は、日本三大仇討で有名な、鍵屋の辻で有る。この場所で寛永十一年十一月七日(1634年12月26日)備前池田藩士・渡辺数馬と大和郡山藩剣術指南役の荒木又右衛門(数馬の姉婿)が数馬の弟の仇である備前池田藩士・河合又五郎伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件で伊賀越の仇討ちとも言われている。藤堂家家紋「蔦」と我が家の家紋「丸に蔦」、また藤堂高虎の入封地宇和島今治」、歴史の出来事(人の流通)などなど非常に親近感を覚える。