ふるさと祭りと花火。

今日は地元ふるさと祭りと土曜夜市で、我が家の子供達も浴衣姿で繁華街へ繰り出して行った。送り出した後、テレビを見ていると夜8:30ジャストに花火大会も始り、「ドーン!バリバリバリッ!!」なにせ我が家から数百メートルしか離れていない河川敷での打ち上げだけに、とんでもない大音響で落ち着いてテレビなど見ていられない。嫁の「お父さん、花火始まったよ!」の声に誘われ、玄関先に出てみると、目の前の火の大輪に思わず「オーッ!」と唸ってしまった。花火と言えば、先日の九州への採集の帰りに、松山市から今治市へ向かう国道317号を北上し、今治バイパス交差点数キロ手前を走行中、今治市の花火大会に遭遇した。国道方向と花火の打ち上げ場所が丁度ピッタリで、まるで国道のど真ん中から打ち上げ花火上がる様に見え、とても大きく立派な花火で有った為、なんだか得をした様な気持ちに成った。と言ったところで昨日の続きで城郭巡りをしょう。(突然の話題変更御免なさい。)今日紹介する宇和島城は、宇和海に浮かぶ日振島への海釣りの帰り道に、数度立ち寄った馴染み深いお城で、築城から幕末に掛けては、東側に堀、西側半分が海により守られていた梯郭式平山城の構造を持つ城だった。現在は周囲の堀と海に面していた箇所も埋め立てられ、現在の桝形町に成っている。築城は平安時代にこの地に砦を築いた事から始りその歴史は古く、江戸期に至るまで、数々の領主が代わった。本格的な城の大改修を行ったのが、文禄4年(1595年)に藤堂高虎宇和郡7万石を与えられ入封してからで、慶長元年(1596年)より慶長6年(1601年)の約6年間を掛けて現在の姿の城郭縄張りが完成し、宇和島城と名付けられた。その後関ヶ原の戦いの功により藤堂氏は伊予国今治にに移封と成り、代わって慶長13年(1608年)、富田信高が伊勢国より転封し入城。慶長18年(1613年)信高、改易により、一時宇和郡徳川幕府直轄地と成り、藤堂高虎が代官となり藤堂良勝を城代とした。慶長19年(1614年)伊達政宗の長男(庶子の為、嫡子成らず)伊達秀宗が10万石で入封。以後9代・宗徳の明治維新まで伊達氏が治める。画像は国の重要文化財に指定されている独立式3重3階層塔型の天守閣で、天守閣としては小さく、鉄砲狭間などを取り入れていないと言いながらも、戦国時代に良く見られる「城を守る仕掛け」として、破風内部に狭い部屋を造って(屋根裏部屋の事、破風の間とも言う)、そこに鉄砲狭間を造り、敵と対峙する知恵が、戦国時代を生き抜いた、武闘派、藤堂氏、伊達氏の築城に、比翼千鳥破風や軒唐破風を用いた造りにさせた心意気を垣間見る事が出来る。(あくまでも私の想像)本丸跡地の南側にドカッと腰を据え、そびえ立っている姿は、豪壮だ。
宇和島城