徳川の『出世城』遠江国浜松城

浜松城と言えば、元亀3年に遠江国敷知郡の三方ヶ原で起こった、武田信玄軍2万7,000人対徳川家康軍1万1,000人との間で行われた「三方ヶ原の戦い」において、徳川軍が一方的な敗北を期し、家康自身も討ち死に寸前まで追い詰められ(恐怖のあまり脱糞したとも伝えられている)、命辛々逃げ帰ったのがこの浜松城だ。浜松城に到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、空城計(空城計(くうじょうけい)とは、中国の兵法第三十二計にあたる戦術で、城門を開け放す事で優秀で用心深い指揮官ほど逆に警戒する事を逆手に取った、敵将の戦闘能力を錯覚させる心理戦法。)を行い、武田軍の攻撃をかわした事は有名。その時家康は、顰像(しかみ像)を描かせ、湯漬けを食べてそのまま鼾を掻いて眠り込んだと言われる。またこのお城は、江戸時代に入り、歴代城主の多くが幕府の重役に出世した事から「出世城」と言われた。現在、画像の1958年に建てられた鉄筋コンクリート造の模擬天守が有り、の遺構としては野面積みの石垣と曲輪跡が残るのみで、文化財の指定は無い。