パステルくんとエナメルさん


「未来」
「未来、ですか?」
「未来というのは不思議なものだな。どのようにも分岐するし、また、どのようにも変化する。そうして、未来は一つだけでもあり、無数に存在する。少なくとも、そう想像され得るし、創造され得る」
「左様で」
「無限の未来の中には僕が死ぬ未来もあれば、僕が生きている未来もある。全ては選択次第であるし、また選択の余地のない事でもある」
「それで、あなたは、どちらの未来を選ぶのですか?もちろん、答えはわかっておりますけども」
「答えがわかっている?」
「『死ぬ未来もあれば、生きている未来もある』と、あなたは言った。生死を並列する場合、死ぬという方を先に言う人は少ないものですよ」
「そうか。そうだな。流石にお前はもう一人の僕なだけあって僕のことをよく理解している」
「恐縮です。それで、どちらになさいますか?」
「選べ、と?」
「選べ、と」
「未来を?」
「未来を」


「そりゃもちろん、死ぬさ」

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 あなたは本物の魔女というものを見たことがあるだろうか?
 いんちきでも、偽者でも、モグリでもなく、きちんと正規の魔女免許を持った正真正銘の魔女を、である。今からあなた方が読むことになるのは『魔女と出会う』という稀少で、不可思議な私の体験を、私の記憶に基づいて、なるべくたがえぬよう精密に書き綴ったものである。

 私はパステル=レイクブリッジ。カントー科学大学の教員を生業としている22歳の男性である。
 もっと詳しく説明すれば、私の本名は湖橋是空というのだが、誰もこの名で呼ぶことはないし、公に使用する書類でさえパステル=レイクブリッジと署名をするのだから、やはり私の名前はパステル=レイクブリッジ、ということになるだろう。これはアメリカ留学時代の友人がつけたあだ名だが、湖橋はともかくとして、是空パステルになるのは正直意味がわからない。色即是空、という言葉に関してよほど怪しげなレクチャーを受けたことは疑う余地もないが、日本人でも首をかしげるような名前をしていた私が一番悪いという気もする。それにアメリカ留学やら日本人やら言ったところで、日本そのものが、現在、アメリカの51番目の州となっているわけだから、説明が甚だややこしい。
 しかし、日本人としての国籍が消滅したとはいえ、学校という公共機関の職員があだ名で書類を書いて誰も文句を言わないのだから適当なものだ。ちなみに私の学校職員としての役職は学習室長であるが、私の自己紹介を聞いた人は、たいがい22歳の若さで博士号を持ち、室長を任されていることを驚き、褒め称えるが、これは閑職であり、私の学究生活は22歳にして未来を閉ざされているというのが本当のところだ。
 確かに鏡を見れば、私は若い。まだ黒い髪は艶やかにたっぷりと量を残しているし、ジャパニーズの定番アイテム、眼鏡もかけているとはいえ、それが老眼鏡であろうはずもない。体格だって、ほっそりとはしているが、それなりには恵まれているといえるし、肉体の衰えはまだ感じたことがない。にも、関わらず、ただ死を待つ余生を過ごしているように感じるのは気のせいではない。やはりそれというのも、この学習室長という閑職のせいなのだろうか。
 そもそも、大学というところは学生が勉強をするところではない。もちろんその側面はあるが、それ以上に大学というところは学者が研究をする施設なのである。特にこのカントーのような科学大学は、その傾向が強く、生徒に物を教えるといういう行為は、教員たちにとって全く余技にあたり、貴重な研究の時間を奪われる煩わしいものにすぎない。そんな中にあって、劣悪な成績の生徒を支援する学習室の室長というのは、面倒かつ、どうでもいい仕事であり、学校案内のパンフレットに『成績の不振な生徒をサポートする学習室もあり、安心!』の1行を付け加えるためだけに存在しているようなものだった。
 要するに私の毎日は、退屈で、どうでもよく、未来がなかった。


 私が彼女と出会ったのは、いよいよ通勤することが憂鬱の種になり、転職さえ考えはじめた頃である。彼女、エナメル=レインドロップは、私の生徒として学習室にやってきた。金色の長い髪を持ったこのひとつ年下の生徒を、私は、始め「何という頭の悪い女だろう」とさえ思った。彼女は、それこそハイスクールの1年生でもわかるようなことさえ知らないのである。常識さえもほとんどなかった。いつも彼女は廊下の左側を走る(私は廊下の右側を歩く、という規則を遵守している。だから私たちはしばしば激突したのである)し、自動販売機でジュースを買うことができないことを知った時は、あきれて物も言えなかった。それはそうだろう。そんな人間がいると思っていなかったのだから。
 私が彼女に「レインドロップ君。君はいったいどんな生き方をしてきたんだ?」と問うても、彼女は「知らないものは知らないんだから、仕方ないでしょ。パステル先生、そう思いません?」と言うだけだった。他の学生のように顔を背けたり、照れ隠しをせずに、きっぱりと言ってのけた彼女の態度は、印象に残った。決していい印象とは呼べるものではなかったけれども、だ。
 エナメル=レインドロップ。成績評価、平均1・8。決していい成績ではない。しかし、彼女に勉強を教えているうちに分かったのは、エナメルは決して頭の悪い人間ではないということだった。話したことは覚えているし、自分で物を考え、発展させることができている。マイナーな研究が多いとはいえ、その道のエリートが集まるこのカントー科学大学の生徒の中でも素質だけなら相当なものだ。
 いつものように廊下でエナメルと激突していた私の姿を見つけた学生課の老人が教えてくれた。「知ってるかい?実はエナメル=レインドロップの入学テスト、実は満点だったんだよ、日本語の綴りが間違ってなけりゃあね」
 どうも彼女は何かおかしい。退屈な生活の中で興味をそそられた私は、エナメルに関して奇妙な事象が多いことに関して、彼女について色々と考証し、彼女を疑い始めた。
 つまり「エナメル=レインドロップ。何者だ?」と。


 一度、疑い始めさえすれば、あとは違和感をたどってさえいけば、それでよかった。やはり彼女が只者ではないのは明らかだった。彼女の生活は常識を完全に欠いている。それも『日本の』常識を。文字のつづり方が下手なのは、やはりエナメルがこの国の人間でないことを示唆している。日本語というものは会話程度ならともかく読み書きに関しては漢字を含めると複雑な構成だから日本地域外の人間では、短期間でマスターすることが、ほぼ不可能なのだ。つまり、エナメルは「ここ数年にうちに」「日本にやってきた」「どこか他の国の人間」ということが容易に知れた。
 しかし「どこか他の国」というのが不明瞭だった。私は、最初、彼女を只の変人だと思い込んでいたわけで、そう思わせるぐらいには彼女は自分の正体をうまくカモフラージュして生活していたからだ。白人の血が入っていることは間違いなさそうだが、パッと見たぐらいではつい最近日本にやってきたとは思えないぐらいのレベルの会話はこなす。だが、観察すれば彼女の学歴は矛盾だらけで嘘であることがわかる。
 そもそも何故彼女が英語でも受けることができるテストを日本語で受けてまで『ずっと日本に住んでいたかのように』経歴を詐称する必要があったのかも不可解であるし、そもそも学歴を偽って大学合格なんてちょっとやそっとでは可能とは思えないわけで、一体、エナメル=レインドロップというのは本当はどういう人間なんだ?
 彼女を観察するようになって一週間、私は思い切って、エナメルを尾行することにした。彼女は大体、ランチタイムが終わると学習室にやってきて、3時ぐらいになると「山陽亭のランチタイムが終わる前に」と言いながら帰ることが多い。(ちなみに山陽亭というのは近くにある定食屋で、今どきアジフライを出す貴重な店である)
 この日も、やはりそうだった。私は、早速、学習室を出た彼女を追跡することにした。勤務時間内ではあるが、私がいなくても問題はないだろう。学習室に仮眠以外の目的で通ってくるような生徒などいないのだから。エナメル以外には。
 裏門を出たエナメルは、バスに乗り、駅前で下車した。彼女は、半透明のプラスチックで作られたアートケース(教科書等を収納しているらしい)を手に、ゆっくりと、しかし、確実に目的地を持って歩いていく。その足が向かう先は、カントーの数少ない女学生たちの間でも評判のカフェだった。どうやら山陽亭のランチタイムは過ぎてしまったらしい。
 エナメルは、誰かと待ち合わせをしている様子でもなく、一人で席を取って座ると、おそらく目玉商品であろうモンブランをオーダーした。しばらくすると、背の高いウエイトレスが、気取った動作でコーヒーとモンブランを運んできた。それを確認したエナメルは、椅子から体を起こし、席を立った。トイレだろうか。
 と、思ったのだが、違った。気づいた時にはエナメル=レインドロップは私の背後に立っていた。私は、絶句して、彼女を見やった。2人は、しばらく無言のまま、見つめあっていた。その間、エナメルの透き通るような金色をしたロングヘアーだけが、ゆっくりなびいていた。そして、私が物も言えないのを確認してから、彼女は、にやにやしながら言った。
「生徒を尾行するなんて、あんまりいい趣味とは言えませんね。パステル先生」
 ばれていやがる。
「わたしをつけまわすなんて、一体、何を考えているんですか?」
 窮地であったが、ここで後手に回ったら、永遠に彼女の謎を解くことはできないだろう。私は、何の根拠もないまま、むりやりに確信することにして、質問に質問で返した。
「君こそ、一体何者なんだ?エナメル=レインドロップ
 エナメルは沈黙した。しかし、これは私の質問が、まったく彼女の致命傷にならなかったことを意味する沈黙だった。この質問に対し、彼女は無限の選択をもって、回答することができる。何故なら、私は、彼女の正体も知らなければ、彼女の嘘を暴くこともできない。彼女は、でたらめでも嘘でも何を言ったっていい。選択は無限だ。彼女の沈黙は、その選択を楽しんでいるが故の沈黙だった。
 そして、彼女は答えた。
「知っての通り、尾行したくなるほど胡散臭い女よ。どこか遠くからやってきた、ね」
 案外、つまらないことを言うと思った。しかし、皮肉としても脅しとしても効果のない言葉ではなかった。ずいぶん正体を探られていることに手馴れているな、と私は感じた。
「謝る。悪かったよ。帰る」
 このぐらいで諦めるような性格をしている私ではなかったし、他に退屈をまぎらわせる事象も思いつかなかったのだ。しかし、この日は、それ以上、彼女と言葉を交わすこともなく撤退した。私の0勝1敗である。
 だが、翌日、まったくこりていない私は、また彼女を尾行した。どのような方法で尾行したかは、あえてここには書かない。しかし、一流の科学大学を首席で卒業、18歳で博士号を取得し、天才と呼ばれたこともある人間の考ええる最も確実な尾行法であったことだけは間違いがない。今度は、エナメルに気付かれることなく、彼女の自宅まで尾行をすることができたし(意外なことに学生課の名簿通りの住所であったのだから、つけまわした私も間抜けなことをしたと思う)、なんと私以外にも彼女を尾行している人間をも発見した。それも複数の人間を、だ。どうやら彼女の尾行に関して、複数の人間が連携して活動しているのは、ほぼ間違いがなかった。そして、複数の人間が連携して活動している形態を、多くはこう呼称する。『組織』と。


 エナメル=レインドロップの住む部屋は、明らかに監視される事を前提に置いた造りになっていた。つまり、外からでは部屋の様子をのぞくことのできない間取りの部屋を、彼女は、わざわざ探して借りたらしいのだ。その用心が役に立っているのは言うまでもない。なんせ今、私と組織という二勢力から同時に張り込まれているのだから。
 私は、エナメルの監視をいったん諦めて、組織の人間を監視することにした。おそらく人数は7人ほどで、ずいぶん本格的なものだ。どうやら私には気付いていない(気付いていたとしたら、私は今頃、何らかの手段で排除されているからに違いないからである)ようだった。服装はサラリーマン風の男が4人、清掃員風の男も2人いて、こちらは車のようなものに乗り込んでいる。そして、最後の1人、どう考えても殺し屋にしか見えない人間がいるのだが・・・。果たして殺し屋にしか見えない殺し屋がいるものだろうか。だいたい殺し屋にしか見えない格好というのが形容しづらい。だが、とにかく殺し屋にしか見えないし、事実、殺し屋なんだろう、あれは。
 さて、私の方はというと、実際にはエナメルの家から500mほど離れた地点にあるライトバンの車内にいた。学生の頃、どうせ研究をやるのなら機材が運べるほうがいいと思って、12回ローンで買った代物だった。現実には研究もやらせてもらえなかったし、機材も運ぶことはなかったのだが、その代わり、尾行に必要な怪しげな機械が載っている。私が、機械に囲まれた狭いシートに座りながら、4本目になるコーヒーの缶を手にした時。『組織』が動いた。


 それは私のような素人目から見ても分かるあからさまな攻勢の挙動だった。今、まさに殺し屋(らしき人物)を擁する組織は、エナメルの部屋へ踏み込み、彼女を殺害、もしくは拉致などするつもりなのだ。私は、あわてて携帯電話を手に取ると、エナメルへと発信した。
「もしもし、パステル先生、なんですか?」
「今、君の部屋のまわりに、怪しい男が7人いる。襲われるぞ!」
「ああ、そのことですか。わざわざどうも」
「逃げなくていいのか?」
「別に・・・」
 電話の向こうの彼女は、不可解なほど、やたら平然としている。7人の、それも訓練されているとおぼしき人間に襲われるというのに、この落ち着きと自信に満ちた声は一体何だ。そして、エナメルは、おびえも緊張も無い、いつも私に話しかけるのと全く変わらない声でこう言った。
「ありがとうございました。うれしくないこともなかったです。・・・でも私を尾行するのは、もうやめてくださいね」
 プツンと音がして電話が切れた。私は、一体、何が今から起きるのか。そしてそれはエナメルの正体と関係があるのだろうか。それを見極めるため、助手席のスタンガンを手に取ると、ライトバンの鍵もかけず、町並みへと飛び出したのだ。


 全力で走る私の視界では、エナメルのアパートのレンガの赤と茶が激しく揺れ、グラデーションを生み出していた。部屋への距離を縮めるにつれ、そのグラデーションは、うねりながら大きくなっていく。息が切れ、口の中に変な味が広がる。もう少し運動をしておけばよかったと、こういう時にだけ思う。
 アパートにたどり着き、薄い金属の板で作られた階段を、鳴る音にも構わず駆け上る。今のところ、「組織」の人影は無い。部屋のある2階へ上りきった私は、そろそろと様子を伺う。エナメルの部屋のドアはぶちやぶられていた。まだ人影は見えない。もう組織は突入したようだった。手遅れかもしれない。そう思いながら、飛散した破片を踏みつけて、私はドアへ駆け寄った。
「危ないわよ!パステル先生!」
 エナメルの悲鳴に近い叫びが聞こえ、私は反射的に足を止めた。すると、その瞬間、閃光が走り、私の目をくらませた。ドスっという落下音が階下から聞こえる。ちょうど部屋の入り口が向いている方角の延長線だ。光のせいで私の目には、もはや何も見えはしなかったが、何かがエナメルの部屋から、ぶっ飛んで落下したと考えるのが妥当だと思った。
「あきれた。まさか2日連続で教師から尾行されるとは、さすがに思ってなかった」
 エナメルの声がすぐそばで聞こえる。落下したのは彼女ではない。すると・・・・・・。ようやく視力が回復しだし、落下したものを確認しようとした私の目には、何か丸く巨大なものが映った。じわじわと正常な能力を眼球が取り戻していく。落下したものは・・・・・・それは、人の生首だった。それも7人分が、ひとかたまりになっているという、とんでもない代物だった。
「いったい何をやった?」
「魔法で、首を一まとめにしてやったの」
 エナメルは普段と変わらない様子で、何でもないように答えた。魔法だって?7人の首なし死体を早くも片付けるエナメルは、教室で数式を解いている時と同じく機械的だ。「うう・・・」と、うめき声が首の塊から聞こえる。首は生きている。胴体の切断面からも血は流れていない。魔法。魔法。魔法。魔法だって?
「というわけで、パステル先生。わたし、エナメルの正体は魔女でした」
 エナメルが笑う。正解を教えたというよりは、もう隠しておくことが不可能だからだろう。エナメルが私を見殺しにすれば、私が「組織」に消されるから、告白したのだろう。私は、既にとんでもないことに巻き込まれているのだと理解した。

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 インパクトのありすぎる魔法のファーストコンタクトから18時間後、私は、エナメルを部屋に招いていた。と言っても自宅ではない。大学が構内に用意した簡素なオフィスのようなものだ。エナメルは、まるで何もなかったのように登校してきた。そりゃあ事が起きてる最中だって何もないような顔をしていたのだから驚くようなことではない。
「さて、昨日のことを説明してくれ」
 エナメルは、微笑を浮かべるながら、私を見据えた。楽しんでいる、といった表情だ。何が起きているかさえ理解できない無知な人間に状況を教えてやるのは、愉快なことでもあるのは確かである。しかし、今の私には、彼女の微笑が、やけに意地悪に見えた。
「まぁ、慌てないでください。いいお土産を持ってきたんで」
 手さげのケースが透明なので取り出す前から丸見えだったが、エナメルは将棋板を取り出した。
「大概、こういう話をする時はチェスか、将棋を指しながらする、っていうお約束があるのよねー」
「一度やってみたかった、っというクチか?しかし、君は日本人ではないのだからチェスでもよかったんじゃないか?」
「ま、そこをあえて将棋っていうことで。それにしても見事なまでに何もないオフィスね。大学の教師の机ってゴチャゴチャしてるのが当たり前だと思ってたのに」
「閑職だからな」
 確かに見事なまでに何も載っていない机の上に将棋板を配置するエナメル。
「それで、昨日のあれは何なんだ。君が怪しげなのは既出のこととしても、ありゃあどう見ても殺し屋だったぜ」
 エナメルの先手で対局開始。
パステル先生は、もちろん魔女は知ってるわよね」
「ああ、知識の上ではな。しかし、実際、あんなことを起こすような魔女が実在するとは思ってなかった」
 事実、トリックではないかという仮説も考えてみたほどだし、魔法の実在には、やはり半信半疑だ。しかし、あの切羽詰った状況で、トリックをわざわざ使って、あんなことをしてみせる理由がない。トリックなら男たちもグルでなくてはならない。しかし、どこの世界に首をすっとばされる事に同意するようなボランティア精神にあふれる人間が存在するんだ。っと、ここで角交換。
「魔法国家アッシュグラウンド。それがわたしの国」
「アッシュグラウンドという国は聞いたことがない」
「まぁ、日本に住んでる人はそうかもね。場所で言うとイギリスのあたりなんだけど」
「イギリスは正確にはいくつかの国の集合体ではあるが、アッシュグラウンドという国は含まない」
「公にはね」と言いながら当たり前のように二歩を指してくるから油断できない。「でもね、先生。あのあたりの国は結構ややこしい歴史があるから、世界的には認められてない国家が意外とあるのよ。アッシュグラウンドはそのひとつ」
「自称、国家だな」

「それはね」エナメルの表情から笑みの割合が増えていく。もはや微笑という表現では不適切だった。「アッシュグラウンドは魔法国家と銘打ってるけど、魔法使いなんかほとんどいないの。でも、魔法使いは、確かにいるのよ。でも、その数はとても少ないの。それに国が認めてる正規の魔法免許を持ってるのは3人だけしかいないの」
「ずいぶん少ないな」
「無免許、つまりモグリの魔法使いは、その何百倍もいるわ。でも、やっぱり全国民の割合からみたら、ほとんどいないようなもんね」
「で、君も、そのモグリの魔法使いってわけか?」
 私は、わざと皮肉をぶつけてみた。しかし、エナメルは笑って(もはや満面の笑みだった)こう言った。
「私は、偽者でもモグリでもないわ。ちゃんと免許を持った正真正銘の魔女よ」
「つまり、君は、たった3人しかいない、正規の魔女のうちの1人ってわけか」
「たったの1人の魔女よ。あとの2人は男だから」
 エナメルは、そう訂正すると、話を止めた。私からの質問を待っている。そんな間だった。琥珀色をした彼女の目が、私から背けられることはない。
「で、あの連中は何だったんだ?どう考えても何かの組織としか思われないが」
「あれは『モグリ』よ」
「まぁ、君を襲いに来たぐらいなんだから、モグリでも何でも魔法使いなんだろうな」
「いや、そういうことじゃなくて、『モグリ』っていう組織。仮称だけどね。私にも、あいつらが何なのかよくわからないけど、ここ数年、モグリの魔法使いを集めて、何かやってる奴がいるのよ。その組織を私たちは通称『モグリ』と呼んでる」
 まわりくどいな。そう思った。わざとこちらに質問をさせるような事を言う。それなら、全部説明してくれりゃあいいのにな。そう思ったが、まぁ、他人の会話術や処世術にまで腹を立てても仕方がない。
「『私たち』とは?」
「国家側の魔法使い、と言っておけば分かる?わたしたちも、なんとなく集まってるだけだから、ちゃんとした名前は無いし」
「つまり、君らとモグリは対立していて、君はモグリの刺客に襲われた。で、俺がそれに巻き込まれた。ってわけか」
「ご名答。いや、でもひとつだけ間違ってるかな。パステル先生が、勝手に人を尾行しておいて、巻き込まれたって言うのはおかしいもの」
「細かいやつだな。で、エナメル。君は、襲われる危険を冒してまで、わざわざ遠い異国の地に何をしに来たんだ?」
 その問いを聞いたエナメルは、意外そうな顔をした。
「その質問には、学習室付けの生徒に登録した時に答えたと思うんだけどなー」
「記憶にない」
 彼女は、少しだけショックを受けたような悲しげな顔を浮かべたが、また例の何もなかったような顔に戻って言った。
パステル=レイクブリッジという人の論文を読んで、この人に教わりたい、って思ったからです」
 今度は私が意外そうな顔をする番だった。どうしてこんな事を言われて記憶になかったんだ?案外、自分は馬鹿かもしれない。本気で少しだけそう思った。
「私に教わりたいから、だって?」
「そう」
「いったい、何を?」
「科学を、よ」
 わずかな風が、エナメルの栗色の髪を揺らす。私は、特に意味もなかったが、じっとその揺れてはまた垂れる髪を見ていた。彼女は、話を続けた。
「わたしたちの国に行ったことがあるなら、お分かりでしょう。アシュグラウンドの科学力はとてつもなく低いのよ。魔法力学が発展してるから、そのせいもあるんだけど、近代科学があんまり普及していないし、それを国民に教育する機関もないのよ。だから、わたしが留学生として科学を勉強しに来たわけ」
 今度は風ではなく、彼女自身の手が髪をかきあげた。重力と反対の方向に力を加えられた髪は、一度、ふわりと浮き上がってから、風に乗った。はらはらと髪がなびいていく。
「科学を勉強するったって、どんだけ幅広いと思ってるんだ。それを君一人で学ぶのか?」
「だから」そう言ってエナメルは笑った。「パステル先生の論文あったでしょ。それを学びたいのよ。わたしは、それが一番知りたいのよ」
「論文、か・・・」
 私は、1年前、私が書いた論文の事を思い出した。決していい思い出ではない。あれが原因で、私は今の閑職に追いやられたようなものだ。しかし、逆に言えば、若い有望な研究者を一人抹殺する決意をさせる程のインパクトを持った論文であることは確かであり、それだけの内容であることは書いた私自身が一番よく分かっていた。長い沈黙の後、私は問うた。
「つまり、エナメル。君は、私の『副物理法則存在理論』が知りたい?」
「そうよ。あれは、もしかしたら魔法の存在を科学的に証明し得るかもしれないから」
 私は、エナメルのその言葉を聞いて、驚きを隠せなかった。なんせ1年前の私自身も「この副物理法則は魔法と呼ばれるものかもしれない」と考えていたのだから。
「確かに・・・」私は、驚きを顔に出さないように気をつけながら、それでも興奮に高鳴る胸を抱えながら言った。「副物理法則と魔法は似ている」
 副物理法則を説明することは困難だ。我々が普段、認識しているものを主物理法則と呼ぶならば、その関係は、テレビの主音声と副音声の関係に似ている。テレビの電波に主音声と副音声の情報が両方含まれているように、この世界は、主物理法則と副物理法則の双方を含んでいる。しかし、通常、テレビを見ている時には主音声しか聞くことができないのと同じように、通常、この世界は主物理法則に則っている。しかし、テレビの音声設定を変更することによって副音声を聞くことができるように、あるきっかけによって副物理法則がこの世界に発現することがありえるのだ。そして、それが私の『副物理学存在理論』の概要だった。
 エナメルが再び話をつないだ。
「『副物理法則は、普段、表に出てくる法則ではない。あくまでサブ的な法則である。しかし、だからこそ荒唐無稽がありえる』。でしたよね、先生?」
「そうだ。副物理法則は、自然が備えているとはいえ、通常は使用されることのない、いわば仮想法則にすぎない。未使用のコンピュータープログラムがエラーを起こさないように、未使用の法則がエラーを起こすことはない。それ故に副物理法則は荒唐無稽や矛盾を内包することができる」
「そして、一瞬だけ副物理法則を発現させることによって、その荒唐無稽や矛盾を現実のものにするのが魔法、だと?」
「恐らくね。未熟なプログラムであっても一瞬だけ使用するならばエラーの可能性が少ないから、決して不可能ではあるまい」
「もしエラーを起こしたら?」
「きっと核爆発レベルのエネルギーが暴走することなってしまうだろうな」
「そう・・・」
 一瞬、エナメルはうつむき、憂いを含んだ表情を作った。しかし、それが何を意味していたかは私には分からなかった。
「それで、エナメル。君は副物理法則を研究してどうするんだ?」
 その私の言葉を聞いたエナメルは、一転、表情を明るくしたように見えた。
「決まってるでしょう。魔法と科学を融合させるのよ」
「科学と融合、か。難しいな」
「難しいからこそ、やるのよ」
「いや」そう言ってから、間を置いて、私は続けた「難しいのは融合そのものじゃない。実用化と普及のほうさ。魔法のことは知らないが、科学がここまで発展してしまったら、科学だってほとんど魔法か奇跡みたいなもんだ。もう1世紀も前に月に行ったんだぜ。魔法だって君がモグリのやつらにやったような事ができるんだから、多少の足かせがあるにせよ、ほとんど奇跡みたいなもんだろう。科学と融合させずとも、魔法単独での利用価値がありすぎる」
 その私の言葉を、エナメルは、じっと聞いていた。しかし、その姿はどこか、普段の授業で私の話を聞くときのような『じっと』ではなかった。そして、彼女は口を開いた。
「確かにパステル先生の言うとおり。アッシュグラウンドの魔法力学はずいぶん発展してるから、科学力がなくても国民は困ってないし、大体のことは科学を使わなくても足りてしまうの。だから、恐らくわたしが国へ戻っても、すぐに高いレベルで実用できない研究なんかにお金を出す企業やスポンサーなんかはいないでしょうね。きっと需要もないわ」
「じゃあ」私がそう言うと、その言葉の先をさえぎるようにエナメルが強く突き刺すように言い放った。
「弟が死んだのよ」
 先程から様子がおかしかったが、エナメルはもういつもの彼女ではなかった。
「魔法事故でね。免許を持った魔法使いが少ないのは、制御が極端に難しくて、事故が絶えないから。だから正式に国家から魔法習得の許可を得るためには難しい試験をいくつも受けないといけない。それを突破した優秀ななずのごく少数の魔法使い候補でさえ、魔法習得までに事故で死ぬ可能性は半数近いわ。モグリも含めると国民の1割近くが何らかの魔法事故で死に至るか、後遺症に苦しめられてる」
 エナメルは言った。
「魔法は確かに便利だわ。でも、科学でこんなに人が死ぬ?」
「別に科学が事故を起こさないわけではないな。しかし、私には判らないが、魔法が個人の裁量や才能によって制御されるのであれば、魔法技術の伝達は、はるかに科学技術よりも難しいだろう」
「そう。身に付けるまでの難度が高すぎるのよ。魔法が物理法則そのものを歪めている以上、どのような小さい魔法でも制御を誤れば、とんでもないエネルギー量が行き場を失って暴走することになるわ。けれでも、魔法を習得するには、当然だけれど誰もが一度は魔法を使おうと試みなければならない。魔法使いではない素人が魔法を使うのは100リットルの水が入る容器の中に100リットルの熱湯を注いで、それを頭上に高く掲げるようなものよ」
 なんだそのたとえは。と思ったが、エナメルは大真面目に話しているので、ツッコんでいいものか迷ったが、結局、彼女が私に期待するような受け答えをすることに決めた。
「つまりこぼして当たり前、ってことか?」
「やけどするのも、ね」
 予定調和の受け答えが続く。私は、そんなことを続けていても仕方がないと思い切り出した。
「で、要するに何が言いたい?」
「だから、減らすの。私たちが抱えるリスクを」
 どうやら嘘はついていないようだった。特に嘘をつく理由もない。だが、ひとつだけ気になることがある。
 つまり「それで何で君が『モグリ』に狙われる?」
「それがわたしにもさっぱり。留学の準備を始めてから急に狙われるようになって」
「それは科学が普及したら、モグリにとって困ることになるからじゃないのか?」
「アッシュグラウンドで一番得をしてるのは魔法使いよ。モグリだって、そりゃ、一般の何も使えない人たちよりは得してるかもしれないけど、科学が普及したら損するってことはないと思うわ。むしろ現状の方が損だもの。だからわからないの」
 目の前のエナメルは、ずいぶんとあっさり言っているが、実際「なんだかわからないけど狙われる」というのはかなりの恐怖だ。理由さえわかれば納得もありえる。しかし、わからないというのは、なかなか克服しがたい不安材料になるはずだ。
「エナメル。君は何で命を狙われてまで、魔法と科学を融合させようとする?」
 彼女は、私のその問いに答えた。やはりあっさりと。
「だって、そういうことを天才がやらなかったら、いったい誰がそれをやるのよ?」
 あきれた。
「そんな理由かよ」
「仕方ないでしょ。だいたいパステル先生こそ何なのよ、生徒に勉強教えてるだけなんて!そりゃわたしは、直接教われて助かったけど、先生こそ使命丸投げよ!天才のくせに!」
「今の私は天才ではないよ。それこそ頭のおかしな奴扱いさ」
「また取り戻したくないの?」
「そりゃそうなれば今よりはましさ」
「わたしと組めば、取り戻せるわよ。天才の名」
 彼女は笑ってそう言った。エナメルと、組む。エナメルと組む、か。悪い話じゃない。少なくとも今の私にはそれこそ千載一遇どころが億載一隅に近い奇跡的な話だ。なんせ魔法を科学的に証明しようというのに、目の前に魔女がいるっていうんだから。
「危険を承知で挑戦するか。それともこのまま逃げ回ってるか。パステル先生、あなたは、どっちの未来を選択しますか?」
 エナメルの目をじっと見る。琥珀色の、澄んでいるのか濁っているのかさえ判らない目だ。私は、賭けてもいいものだろうかと悩んだ。しかし、既に答えは決まっていたように思う。それが決まったのは、彼女の魔法を目撃したときかもしれないし、あるいは私たちが出会った時かもしれないし、私とエナメルがそれぞれ魔法と科学の融合を夢想した時かもしれないし、あるいはもっと前かもしれない。
「いいだろう、君と組む」
「決まりね。よろしく、パステル」
 お互いまったく逆方向からアプローチをかけて同じ場所にたどり着いた、二人の自称天才。その邂逅は必然であったかもしれないし、偶然であったかもしれない。真に信頼できる相手であるか、おそらく互いに確信がなかったろう。しかし、これだけは確かだった。俺たちは、きっとろくでもない。
だが、しかし奇跡に等しいチャンスをもらった。

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「見ろよ、君のことが新聞に出てるぜ」
 私は、まだ洗い髪を乾かさぬままのエナメルに朝刊を渡した。新聞の片隅にはこう書いてある。
『女子大生、重傷で発見』
 どうやらエナメル=レインドロップという名の女子大生が自宅で重傷を負わされ気絶しているのが発見されたそうである。
「エナメルは事件のショックからか言葉を失っている。警察はエナメルの身寄りの者を探しているが未だに見つかっていない、ね・・・」
「一体どういうことだ?」
「簡単よ。部屋に等身大エナメル=レインドロップを置いてきた、ってだけの話で」
「何だ、その」気持ち悪いものは、と言おうとしたが、記事の通りなら重傷であるはずのエナメルは、目の前にいて、しかも不機嫌そうな顔をしているので、私は、その言葉を飲み込んだ。
「これでもわたし、国に帰ればアイドルなのよ」と、彼女は得意気に言った。まぁ、確かに国に一人しかいない魔女だ、人気ぐらいはあったっておかしくない。
「美人魔女ってやつか?」
 どうせ美人ボクサーだとか、美人科学者だとかの類だろうけどな。心の中でそう思うが、まぁ、口に出さない方がいいだろう。
「そんで、インチキ魔法で作った人造人間ならぬわたしの人造人形を作ってる輩がいるわけよ。買った人はエロいことに使ってるらしいけど、まったく腹の立つ話だわ。ライセンス料だって払いもしないのに」
「つまり君はそれを部屋に置いてきて、その人形とやらが襲われたってことか。医者でも人間と間違えるなんて、相当精巧な人形なんだな」
「この国の警察じゃあ、わたし本人と間違えたとしても彼らを責めるわけにはいかない程度にはね」
 私たちがカントヴォーゲを発って2日になる。向かっている先は、魔法国家アッシュグラウンドのエナメル=レインドロップ研究室。エナメルにしてみれば、パステル=レイクブリッジ(つまり私だ)に教えを乞うのが目的であったのだから、私とタッグを組んだ以上、自分の研究室に戻った方が勝手がいいのだし、私も魔法を研究するのであれば、アッシュグラウンドに直接行った方が都合がいい。大学に休暇届も出さずに出発したことだけが難点だが、幸い、エナメルはあちらではそれなりの権力者らしいし、路頭に迷うようなことはないだろう。多分。
「警察はともかくとしてだ。刺客に関しては、既に新しい奴らが放たれてるようだな」
 そう言うと、エナメルは、にやにやしながら私に教えた。
「というか、もう来てるみたい」
 そう言われて、始めて神経を張り巡らせる。確かに人の気配をドアの向こうに感じる、ような気もする。まぁ、訓練されてない自分の感覚よりはエナメルの言葉の方がよっぽど信頼できるだろう。慌てて、テーブルの上のスタンガン(電極を飛ばすことのできる遠距離用のものだ)を手に取る私の傍らでエナメルは余裕の表情を浮かべている。
 次の瞬間、琥珀色だった彼女のその目が、パッと光ると、部屋のドアが水洗トイレに吸い込まれる排泄物よろしく、冗談のように欠片も残さず消失する。消えたドアの先には、消失に巻き込まれたのか、人間の腕部だけが宙に浮いている。魔法から逃れたそれは、数瞬前には存在してた本体とは違って、当たり前の物理法則に従い、どさりと床に落ちる。
「おい」という小さな声が廊下から聞こえる。敵は複数のようで、早くも入り口に2、3人殺到している。床に転がった腕から噴き出す血に目もくれず突っ込むなんて、なかなか血気盛んなことだ。
「ホテルに何て言ったらいいの!」
 そうエナメルが怒声に近い声を上げると同時、血気盛んな刺客が3人まとめて、ぐにゃぐにゃに歪む。歪んだかと思えば壁のような形状になり、そして最後はドアに変形して再び入り口をふさいだ。またどさりという音がするが、今度床に落ちたのは腕ではなく、財布だった。
財布だけを残して人間をドアに変形させる。本当に何でもありかよ。魔法の力の強大さにも驚くが、願わなければ叶わないのが魔法だ。こんな結果を願うエナメルの神経もすさまじい。私は、薄ら寒い気持ちになった。
「前に襲われてから3日しか経ってないのに、もう刺客が来るなんて」
「そのペースは早いのか?」
「よくわからないわ」
 わからないのかよ!とツッコミを入れたくなるが、戦闘の興奮で未だに紅潮しているエナメルの顔を見て、それはやめることにした。
「わからないとは?」
「刺客が魔法使いなのかどうか、ってことね。いつも大体その前にやっつけちゃってるんだけど」
「モグリは、魔法使いの集団なのにも関わらず、その刺客は魔法使いじゃないかもしれないのか?」
「あのねぇ、魔法国家を称しているアッシュグラウンドでさえ、正式な魔法使いは、わたしを含めて3人しかいないのよ。非公認の魔法使いは、当然、それに比べたら多いとはいえ、それでも珍しいの。ましてや魔法使い同士の戦闘なんて、ほとんど例が無いと言ってもいいぐらい」
「だとすれば刺客が魔法使いじゃない可能性も随分あるということだな」
「本当に、随分、ね。もし、刺客がみんな魔法使いで、しかも、本当にわたしを殺すことができる可能性を持っているとしたら、えらいことよ」
「どうしてだ?」
「そしたら『モグリ』の人材収集能力と育成能力は、完全に国家そのものを超えていることになるもの。そんな数の魔法使い、アッシュグラウンド政府だって育てきれていないのに」
「だから、そんなことありえないわよ」とエナメルは、笑って言ったが、その笑顔は、かえってエナメルが不安を完全にぬぐいきれていない事をかえって証明しているように、私には見えた。
 もしも、彼女の不安が的中するような事態になれば、それは深刻すぎる状況だろう。それは『モグリ』に高い育成能力と統率力を持った『天才』の存在を意味するのだから。エナメルは、天才だ。そして、天才を殺せるのは天才だけだ。『無敵の存在』が『敵』を持つというのは一体どういう気分なのだろうか、と私は、再び荷造りをしながら物思いにふけった。


「おいおい、勘弁してくれよ。タイヤがパンクさせられてる」
 ホテルの人間は、何も気づかなかったらしく、私たちは、無事にチェックアウトをすませたが、駐車場のライトバンまでは無事ではなかった。中の機材には何もされていないようだが、ご丁寧なことだ。忌々しい。
「魔法で治すわ。ちょっと下がってて。パステル」と、エナメルが仕方がないという口調でつぶやいた。彼女は、2人が組んで以来、私の事をパステルと言う。私が安全な位置まで下がるが早いか、空気が抜けふにゃふにゃにしおれきっていたタイヤがたくましく膨れ上がる。
 乗り込んでキーをまわしてみるが異常は見られない。とりあえず愛車は元通りになったようで、ようやく私たちは出発することができた。
「魔法ってのは本当に何でもアリなんだな」
 私が感心すると、エナメルが薄桃色の頬を(わざとだろう)膨らませて、答えた。
「何でもアリなわけないじゃない。条件がいろいろあんのよ」
「条件?」
「条件は個人差があるから、あんまり人には教えたりしないんだけど、パステルにならいいわ。教えてあげる」
「ありがとうよ」一応、言っておく。最近、ようやく彼女の扱い方がわかってきた。私は、教師で彼女は教え子であるにも関わらず、最近とは情けない話だが、言い訳をすれば彼女は明らかに猫をかぶっていたのだから仕方がないと言えば仕方がない。
「私の『条件』は『あやふやにしか知らないモノに対して魔法を使うことができない』よ。これは満たすのが比較的簡単な部類に入るわね」
「随分と定義が曖昧だな」
「まぁ、基本的には『わたしが存在を知覚していない物体』『わたしが理解していない状況』に対しては魔法を行使できない、って風に覚えててもらえれば、パステルは困らないと」
「それは、例えば機械なんかも構造を理解せずに魔法をかけることができるということか?」
「まぁ、よっぽど巨大で複雑なものじゃなければね」
「適当だなぁ」
「魔法そのものの性質がそうだからねえ。で、条件は人それぞれ違っていて、その内容も幅広い。覚えておいて。魔法を使う上で最も重要なのが、この『条件』だと思ってもらって構わないわ。ことに戦闘においてはね」
「よっぽど高レベルの魔法使い同士じゃない限り、先に条件を満たした方が勝つ、ってことだよな、つまり」
「そう。さすがに理解が早いもんね。対魔法の戦闘は経験者が少ないから、魔法攻撃を防ぐことができる術者は、相当珍しいわ」
「『条件』が重要なのは判ったが、条件ってのはどういうのが多いんだ」
「さぁ。何が条件なのかは全くわからないわね。わたしのように『あやふやにしか知らないモノに対して魔法を使うことができない』人間もいれば『未知の物に対してのみ行使することができる』という人間もいるぐらいで」
「めちゃくちゃだなぁ」
「基本的には主観に左右されるしね。人によっては条件が『憎んでいるモノに対してのみ魔法を使うことができる』という事だってあるぐらいで、なんかもう理屈じゃないわけ」
「なるほどな」
 ひとしきり、話し終えると、私は運転に集中した(あまり得意ではないのである)のだが、そんなに集中力が続くわけもなく、しばらくすると「理屈じゃない魔法を使う魔女は、やっぱり理屈じゃないんだろうか」と、助手席でうたた寝を始めた若い魔女の事を考えたりした。


「どうやらエナメルは、パステル=レイクブリッジの協力を得て、2人でアッシュグラウンドに向かっている模様です」
「調査を開始して2週間、失った兵隊は12人。それで分かったのがそれだけか」
「師父。あなたの方がよくわかっているはずですよ。あのエナメル=レインドロップに打ち勝つということがどんなに困難であるか、という事を。ましてや、生け捕りにしろと仰る」
「しかし、アッシュグラウンドのラボに辿りつかれては困るな。計画が破綻しかねない」
パステル=レイクブリッジがいるとなれば、話は別です。作戦を変えましょう」
「どういうことだ?」
「エナメルに勝つための戦いではなく、相手の戦力を削ぐための戦いをすればよい、ということです」
パステルを殺すということか」
「そうです。エナメルはともかく彼を生かしておく必要もありませんし、成功すればエナメルのスケジュールも大幅に狂うでしょう」
「妥当だな」
「では、失礼します」

「エナメル=レインドロップは生け捕りに、か。師父にも困ったものだな。そろそろそういった情は捨ててもらわなければ、ね」

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「エナメル、確かさっき君は『機内で襲撃される可能性は無いと思うわ』と言ってなかったか?まぁ、別に責めてるわけじゃあない。私だって、そんなことは思ってなかったんだからな」
「あれよね。何考えてんだ、って話よね。まだ着陸まで4時間もあんのにね」
「機内の他の場所が気になるな」
「それと奴らがどっかで着陸する気なのか、墜落させる気なのか、もね」