『難民高校生』『女子高生の裏社会』ほか

難民高校生----絶望社会を生き抜く「私たち」のリアル

難民高校生----絶望社会を生き抜く「私たち」のリアル

最貧困女子 (幻冬舎新書)

最貧困女子 (幻冬舎新書)


「子ども虐待は鬼畜のような一部の異常な親がするもの」という時代から、「どんな親でも悪条件が重なれば虐待に至りうる」という見方が、関係者の地道な啓発もあって、それなりに広まってきている昨今。

それでも“虐待死”に至るような重大事件を起こすのは、“そういう親”だという印象を、最近の報道は植えつけようとしているようにみえる。


それはあながち間違いではなくて、確かにそういう“ハイリスクな層”の人はいるのだけれど、でも決して彼らは生まれつきの猟奇的な人格の持ち主ではなく、もうちょっと込み入った背景があるはずだろうと思う。

(最近の事件のことは詳しく知らないので、ここからは一般論。)

その“込み入った背景”のイメージにピッタリはまったのが、これらの本で紹介されていた“貧困層”の人たちだった。



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ここでいう貧困とは、単に経済的な問題ではなく。

『難民高校生』で引用されている湯浅誠氏の表現だと、人間関係や精神的な余裕を含めた「“溜め”のない状態」。

『最貧困女子』では「家族の無縁・地域の無縁・制度の無縁」(+「精神障害発達障害・知的障害」)が貧困の背景として指摘されている。



親との関係が悪く(多くは虐待的な環境で)家に居られない。

学校ではいじめられた、あるいは通っていられる状況ではなかった。

福祉システムは彼女らの存在に気づいていない、あるいは問題の発端である親元に返すことしかできない。


こうして日常を過ごす居場所をなくし、信頼のおける大人、助けてくれる大人と出会うこともない子どもたち。

彼ら・彼女らにその日をしのぐ衣食住やお金、そして人とのつながりまで提供してくれるのは、彼らを利用したい“裏社会”しかない、という現実が、『女子高生の裏社会』『最貧困女子』の2冊で描かれている。*1

(『女子高生〜』では、そこまで貧困とは言えない層にまで“裏社会”が近づいていることも書かれている。)



人に認められ大切にされた経験のない人が、泣きわめきときに反抗する子どもを当たり前に受け入れるのは難しいかもしれない。

誰かに助けてもらった記憶のない人は、困ったときに支援を求めるという選択肢がそもそもないかもしれない。


「関係性の貧困」は、子育てにもそうやって顔を出す。


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そこまで深刻でないケースも含めれば、こういう居場所のない子どもたちがたくさんいるということは、ちょこっと関わっている相談業務で肌で感じている。

にもかかわらず、正直、今の児童福祉制度では救う手立てがない。

児童相談所は子どもの命に関わるケースで手一杯。
自宅に“心理的に”居場所がない、と言っても、簡単に保護はしてもらえない。


いざというときに泊まれるシェルターのような「居場所」と、困ったときにちょっとしたことを相談できる「頼れる大人」。
この2つが、すぐにでも必要とされているのだけれど、「居場所」となる施設は相当に限られているし、「大人」も、受容力と倫理観をもち相性の合う人と出会えるかどうかは運まかせだろう。


そんなん最優先で整備すべきなのに、と思う僕の考え方は過保護、なのだろうか。そこまで「支援」しなくても、多くの子は最終的にはなんとかやっていけるものなのだろうか。

でも、そこで取りこぼされる一部の人の問題が、こじれて更なる問題となる前に、掬いあげるのが「予防」というものだ。
そこをケチっても結果はマイナスリターンであることは、マクロなコスト試算でも出ているし、何より誰ひとり取りこぼされても仕方のない子どもなんていないのだからと、そういうことは青臭くても言っていきたい。


興味を持った人のために、著者仁藤さんが代表を務める団体Colaboが運営する、一時シェルターへの寄付ページを貼っておきます。
虐待などを背景に家に帰れない少女が夜間駆け込める「一時シェルター」を開設・運営したい!

*1:この構図は『累犯障害者』で描かれる、刑務所に行き着く人とまったく同じ。
http://d.hatena.ne.jp/blog320/20130202/p1