物語を得るために自ら騙される、ということなのだろうか

以上の応答について、当ブログでapesnotmonkeysさんとdeadletterさんからコメントをいただく。

# apesnotmonkeys
『>日本の犠牲についてはどう思われてるのですか?今の平和は何の上に成り立ってると説明出来ますか?

これは(首相の)靖国(参拝)を支持する議論に必ずと言ってよいほど出てくる紋切り型ですが、今の日本の平和が「勝ち取った」ものではなく「負け取った」ものである、というのはそんなに理解しにくいことなんでしょうかね。』 (2005/11/14 10:17)

# deadletter
『こんにちは。確かに頻出ですよね、このロジックは。でもbluefox014さんもリンク先で述べられていますがこの因果律ってどうとでも言えるものでしかないんですよね。というのも「今の平和」を成り立たせたものとして考えられるのは、実はたくさんあるはずですから。例えばこの手の論者が嫌う日教組の教師こそが、戦後日本の教育を担い、戦後日本を立て直す人材を輩出したと考えれば今の平和は、日教組によって成り立っている、という見方も出来る(しかも彼らは日教組の影響力を非常に高く見積もっているのだからなおさら)。或いは平和憲法の成立以後日本は軍によって一人の外国人も殺していないのだから(成立以前は殺していた)、平和憲法が平和を成り立たせた、とも言える。もちろん「戦後民主主義」でも同様です。

様々な要素が挙げられるにも拘らず、その内最も直接的な関係が薄そうな「太平洋戦争の犠牲者」がなぜ最初に挙げられるのか。おそらく感情論なので理屈ではないんでしょうけど。もちろん僕も日本人の犠牲は痛ましいことだと思います。が、やはり別問題として考えるべきだと思います。

その「痛ましさ」を「今の時代を作った英雄だから云々」という形で隠蔽したり、正当化したりするのは、特にそれを政治的言説・(論敵を黙らせる為の政治的)方便として使われることが多い状況を鑑みれば、もはやそれは「弔い」という行為から遠く離れたものになっていると思います。

「今の平和と犠牲者とは関係がない」と言えないこと、それを口に出すのが憚られるような言論空間が何故かいつの間にか構築されていること、それが政治利用されていることにある種の気持ち悪さを感じます。』 (2005/11/14 20:31)

私個人は、「英霊達が今の平和の礎になった」と行っている人は、本心からそう思っているのかについて疑問に思っている。実はそうでないことを薄々分かっているように思えるのだ。
しかしそれでも、彼/彼女らは「英霊達が今の平和の礎になった」という物語(フィクション)を信じる。というか騙される。自らすすんで騙される。
なぜか?
それはおそらく、自らを騙した代償として彼/彼女らは「物語」を獲得できるからだ。その物語は彼/彼女らを「苦痛」から解放したり、その他もろもろの効用を有するのだろう(「その他もろもろの効用」の具体的内容については、別途考察を要する。deadletterさんの言う「政治的方便」など)。