権威の個人化

無視しようかと思ってたけど、根本的な齟齬が見えてきたので。
今度こそ最後だと思う。

権威と権力の区別

まず、権威と権力は意味が明確に異なる。それをごっちゃにしてもあまり生産的な議論にならんと思う。
waveriderの日記 ニセ科学批判 vs ニセ科学批判批判について

権威とは、大辞泉によると「他者を服従させる力」のことで、その強力さゆえ取扱には細心の注意を払わねばならない。<<

とあるが、これはむしろ社会科学的には権力のこと。じゃあ権威とは何かというと、権力を行使する正統性のことだ。権威はあくまでお墨付きであって、権力のように実際に執行する力を持たない。裁判において裁判官の判決は権威を帯びるが、されを実際に行使するのは刑務所だ。
 墨付きにすぎないから確かに、絶対的なものではない。でも

waveriderさんのおっしゃることに準拠すれば、その権威は自分自身に対して自ら選んで行使していることにならないか。

というのはちょっと違う。確かに権威は権力と違って、それに従うものが表面的に‘自発的に受け入れる‘ようにみえるが、それは従うかどうか選択できることを意味しない。裁判の判決や科学的事実を考えればわかるように、受け入れる余地が存在し得るのと自由に選択できるのとは全く異なる。
 確かに裁判の判決は、個人で無視しようと思えばできるが、社会や制度はそうじゃないので、無視によってさらに懲罰を受ける可能性も出てくる。科学的事実も自分一人が無視する分にはよいが、無視しない他人や社会との齟齬を考慮すれば、決して自由に選択できるものではないと気付くはず。
 以上、権威というのは力そのものではなく、他人に何か力を行使するときのお墨付きにすぎないが、無視するとサンクションや不便利を被る可能性が高いもの。だから通常、自ら選んで拒否することはできない。ここではまあこれはどうでもよい点。この先が問題となる。

(参考)http://en.wikipedia.org/wiki/Authority

権威の取り扱い:Chromeplated Rat

「不誠実」と云うのは、権威と云うのを自分との関係のあいだで理解しようとせずに単に「抑圧的なもの」として受け入れ、それを勝手に「権威の側にいるもの」と認識した相手に投射して、その相手に「抑圧されている」と云う認識のもとに論を張るスタンスの謂です。
相手が権威を背負って抑圧しているわけではなくて、(仮に批判的にでも)自ら受け入れた権威に自ら抑圧を受け取っているのに、それをあたかも相手が押し付けている、と云う状況として受け止めるのは、要するに(自分自身に対する)ごまかしですよね。
by pooh (2009-05-01 08:25)

裁判の例でいえばこういうことかな。勝訴した被告が判決をもとに原告に何か言ったとして、それで原告が抑圧的だと思ったとしてもそれは被告が押し付けているわけではない。論理的には全くその通りだけど、果たしてこの意味で自分が抑圧されているという認識のニセ科学批判批判者がどれだけいますかね。
 私が知る限り(トンデモさんはおいておいて)、このレベル、つまり科学的事実(権威)に対するニセ科学批判者の説明を否定したり批判している人はほとんどいないと思いますが。科学的事実をもとに事実を指摘することを抑圧的だとか偉そうだとかいってんですかね。科学的事実を否定しているんですか。
 そうじゃなくて、批判批判者が指摘してんのは、ニセ科学批判者が科学的事実をもとに説明すれば、そのほかも正しいと勘違いしている点じゃないんですか。権威(科学的事実)をもとにすれば科学的事実以外のことにもその権威を適用できると思いこんでいるのを批判しているんですよ。
 被告が、判決を片手に、「社会のための勝訴だ」〜とかいったとして、その態度を原告が批判することが常に判決に背を向いているといえますか。自分が科学的事実をもとに批判してるからといって、ニセ科学の蔓延を防ぐことや防げてるかどうか、についての批判が成立しないといえますか。

2種類ある権威の適用

 ここに2種類の権威の適用があります。第一の適用は、科学的事実をもとに、科学的事実について述べて、それを正しいとすること。第二の適用は、科学的事実をもつに、科学的事実を述べている人の科学的事実以外のことに関して正しいとすること。批判批判者はあくまで後者を批判している。
 ニセ科学ニセ科学批判者のやりとりは、第一の適用をめぐってであり、確かにニセ科学の支持者は、科学の権威をごまかしたり、背を向けているといえる。一方、ニセ科学批判批判者は、第一の適用は問題にせず、第二の適用をだめだと指摘していて、別に科学の権威に背を向けているわけではない。
 第二の適用は、いいかえれば<権威の個人化>です。科学的事実(権威)の権威性は、あくまで(科学的)事実にのみあります(第一の適用)。事実を指摘する人そのものや、態度、その人の他の主張に権威性はありません。事実を超えてそれを言う個人まで正しいと考えるのは第二の適用です。
 一番わかりやすい区別は「科学的正しい」といえるかどうか。○○という定説によれば、××は間違っているという主張は「科学的に正しい」(第一の適用)。しかし、それを主張する人そのものや態度、他の思想は「科学的に正しい」のか。当然「科学的正しい」の範疇ではありません。
 確かに、ある言説の科学的に検討することは、第一の適用の話です。しかし、それに「ニセ科学」というラベルをはって社会から排除しようとすることや、それを行う態度、その批判が「ニセ科学」にはまっているひとを救っているかどうかは、「科学的正しい」かどうかの話ではありません。
 もちろん、これはそういった「科学的正しい」以外の範疇の言動がすべてダメだとか問題があるということを意味しないし、それが社会に望ましい場合も十分あるはずです。しかし、それはそれで議論すべきであって、決して批判に依拠する科学的事実から直接正しいといえることではない。
 なるほど、ブログでの批判が実際にニセ科学の蔓延を防いでいるかわからない、といった批判は、それが批判側の意欲をそぐとか、無知な人の混乱を招くとか批判されうる余地はありますが、それは科学的事実を受け入れざるをえないでくすぶっているとか自分を欺いているとかではないのです。

ニセ科学批判批判者が「ともかくお前らの態度が気に食わない」というスタンスを取ってしまうのはなぜか

すでに書きましたが、おそらくそれはニセ科学批判者が第二の適用をするから。つまり、科学的事実以外の事柄にも、科学的事実並みの権威性があるかのようにふるまい、過剰に自分たちのふるまいを正当化しているからです。だから批判内容は批判しないのに批判態度は批判の対象にするのです。
 もちろん、ニセ科学批判批判者が批判していることは、ニセ科学批判者がやっている‘崇高‘な批判に比べればかなり程度の低いものです。態度とか一貫性を問題にしているという点で。でもこれは「その‘崇高さ‘を傷つける」の一言で済まされるものではく、また独立に話あわれる論点ですから。

でもまぁなんと云うか、自分でちゃんと科学に背を向けると云うことがどう云うことなのかを考えない、都合のいいところだけつまみ喰いして自分の発話の整合性なんかは気にもとめない怠け者なのだろうなぁ、みたいには思ったりするかも。

誰に対していってのか知んないが、‘不合理と戦う‘ためには一貫性が多そがれてもしょうがないとかいってる人や、言語学の都合のいいとこだけ取りだして水伝を反証不能だとした人や批判対象と同じ科学観(と思えるほどに科学哲学に不勉強な表現)なのに、自分はまともな科学哲学を念頭に置いたとか言っちゃう人や、とくにそれを気にも留めないくせに「一般」を批判するのは無理だとか言ってた人たちが脳裏に浮かびました、なんてことは全く言う気はないが、「科学に背向ける」ということは、必ずしも自然科学に限らず良いことではないと言っておきたいと思います。