深奥のバランス
脱力が大事だと知ってはいても、なかなか実際に脱力することができないのは、心身がその深奥でバランスを取っているからだ。
一部分だけに注目し、そこのみ脱力しようとしても、上手くいかない。
結局人間の身体、そして心も含めた存在全体が、トータルでバランスを取るようにできているからである。
ポイントに注目するのはいいが、その一部分だけ脱力させるのではなく、そのポイントを活かすためには他の部分の脱力も同じように大切なのだ。
深奥を感じ取り、そこに働きかける。そこに本当の意味での脱力と調和に近づくカギがある。
深奥そのものをつかむことはできないだろう。しかし、それに近づくことはできる。
成り切ること
人間の心は、過去や未来に自由に飛ぶことができる。
しかし、身体はここにしか存在せず、また、身体が物理的に制約されている存在である以上「一つの瞬間に一つのあり方」しか選択できない。
であれば、そのあり方=動作、行為、当為そのものに「成り切ってみる」ということが大切なのではないか。
当人は熱心にやっている様でも、実は、単なる学習したプログラムとしての運動ををなぞっているだけということは多い。
既に自動化されているプログラムは、それはそれで大事なものであるが、しかし、それが同時に自分の成長を妨げている足かせとなっている可能性も大いにありうることである。
単なる自動化されたプログラムを超えるアプローチが大事なのだ。
あらためて、今自分がやっていること、選択していることについて、本気で成り切ってみる。
そこにヒントがある。
同じ動作でも、全く同じ動作は絶対にない。川の流れは、いつ見ても同じようだが、「同じ川の流れ」は絶対に存在しない。
今、自分のあり方を選択しているのは自分自身だ。
そこにあらためてスポットを当ててみる。
勝つことより負けないこと
すべてにおいて「勝つ」必要はないが、「負けないこと」は大切なことである。
勝負はルールに基づいた競争の結果である。
勝ちがあれば、負けがある。
ルールと競争の特性を熟知し、勝利に向かって自分をコントロールしていくことは、確かにおおいに意味のあることであるだろう。
しかし、中身のない表面的な勝利も勝利である。ここに大きな落とし穴がある。
内容のない単なる表面的な勝ちを求めることには意味がない。自分と同じように負けて傷ついている人もいるのだ。
大切なのは、勝負の中に、否、自分が関わる行為の中に中身があるかどうかであろう。
「負けないこと」は表面的な勝利を求めるといった記号的な意味での満足の追求ではない。
もっと人間の「生きる」という生命力の根幹に根ざしたものである。
死んだ人間はあっというまに腐敗し、その身体を構成している分子や原子は、土に帰っていく。
人間とて物質からできている。その物質である人体をバラバラに解体し、宇宙に拡散しようとする力は強大なものである。
でも、それに逆らって人間は生きているのだ。負けないように。
人間は、大自然の一員でもありながら、同時にあくまでも独立し、意思をもった一個の生命体でもある。
大宇宙に対し、人間を小宇宙になぞらえることは、よくできた考えだと思う。
しかし、どれだけ人間が大宇宙と一体化しようと、あくまでも一個の「生きる意志」は消えることがない。
それは、限界まで接近することはあっても決して交わることのない漸近線である。
負けるな。自分の生きる道を自分で選び取るために。
過去は変えられる
過去は変えられる。
過去に起こったことそのものは確かに変更不可能である。
しかし、「過去に起こったことに対する、現在の態度」は自分の意志で如何様にも変えることができる。
「過去に起こった出来事が、現在の私に影響を与え続けており、私に対する桎梏となっている」と考えることはあるだろう。しかし、真の桎梏は「過去に起こった出来事そのもの」ではなく、「それが桎梏となっているという自分の考え方」そのものである。
自分を縛り付けているものは、自分しかいない。
外に原因を求める前に、最も身近にあるものを観察せよ。
身近すぎて気がつかないかもしれないものの声に耳を澄ませよ。
真理は方法論の積み重ねでなく
方法論の積み重ね、知識の積み重ねが真理に近づく道ではない。
それはむしろ、真理から遠ざかる道を歩んでいるのかもしれない。
関わる主体の意思に関係なく「これをやっておけば、大丈夫」といった方法論など存在しない。
方法論や知識は間違いなく大切なものであるし、ものごとの上達においてなくてはならないものである。
しかし、何をやるにせよそれに関わる意思が最も大切なことである。
便利な道具や発明品を使わないのがいいということではもちろんない。
先人の知の集積を有効に活用するのも大切なことである。
しかし、何よりも大事なのは、ものごとに対する主体的な意思である。
関係をどう取り結ぶのか、当人が自分で決めることである。
世界を変えること
世界を変えることは、誰にでもできることではない。
でも、自分を変えることは誰にでもできることだ。
自分が変われば世界は変わる。
客観的で不変な世界など、存在しない。
刻一刻とこの瞬間にあり方を変えていく世界の姿があるだけだ。
それは私を映す鏡の様に存在している。
認めてあげた時に変容は起こる
ダメな自分の姿は認めたくないものだ。
しかし、認めてあげなければ、変わるきっかけも与えてあげることはできない。
改善は、排除することではなく、異なったところから光を当ててあげることである。
単なる嫌悪感からくる排除は、その最も排除したいものの性質を裏側で強化していることになる。
認めてあげた時にこそ変容のきっかけが与えられるのだ。
正しくみること。この困難さ。そしてシンプルさ。