『星座から見た地球』福永信


星座から見た地球

「読み終えたので書いておく」をやろうと思ったきっかけは、この小説でした。
『星座から見た地球』福永信
です。
事前に聞かされていた情報から、なんとなく「実験的」というイメージを抱いていたんですよ、読む前はね。「実験」は嫌いじゃないけど、ハードルが高いんじゃないかと勝手に思ったりして。でも、飛んでみるもんですね。思ってたよりハードルは高くなく、しかもすごく面白い。大好き、と声を大にしていいたいくらい、よかった。とっつきにくそうに見えてフレンドリーでチャーミング。確かに、ありきたりの小説とは違うところはたくさんあります。でも、そういうものだとして読めば、ぜんぜん飛べちゃいます。ということで、レッツ・ジャンプ。では、飛び出す冒頭から。

Aはとびだした。それ以上がまんできなかったのだ。たった五分だがながいながい時間にそれは思われた。雪はやんでいたが降っていたことすらAは知らなかった。Aは立ち止まった。雪だるまを作りたいと思ったからだ。でもいちどぶるっとからだをふるわせただけでまたすぐかけだした。Aはもうおうちになんかもどるつもりはなかった。

これだけでもう、「ありきたりの小説とは違う」匂いがぷんぷんしますね。登場人物が名前じゃなくて、「A」と記号のように表されてるところがいきなりひっかかります。とっつきにくそうでしょ。いったい何者なんだ、と。しかも、「ながいながい時間にそれは思われた」って何が? すでに疑問だらけです。しかし、この疑問に答えることなくAは駆け出してゆきます。そして、「おうちになんかもどるつもりはなかった」とくる。え、「おうち」?
淡々とした文体に似つかわしくない言葉使いに、おやっと思いますが、どうやらAは子供のようなんです。そしてこのあと段落が変わって、「B」の話が始まります。次の段落では「C」の話が、さらに次の段落では「D」の話が綴られます。どうもB、C、Dも子供らしいぞということはわかるんですが、彼らの関係性がわからない。というところで数行の空白を挟んで、またAの話が始まります。続いて、段落ごとにB、C、Dと続く。うーん、どうなってるの?
整理しましょう。一人の子供についての話が一つの段落で語られる。彼らは名前ではなく、A、B、C、Dとアルファベットで記されています。Aのパート→Bのパート→Cのパート→Dのパートという具合に順繰りに進行し、数行の空白ののち、またAのパート→Bのパート→Cのパート→Dのパートがくり返される。基本的には、この小説は、いかにも仕掛け然としたこのパターンに乗っ取って語られていきます。
ただし、ややこしいことにそれぞれのパートで登場するAが皆同じ人物かどうかはわかりません。同じようでもあり、でも違うっぽいところもあり。B〜Dも同様です。しかも、時系列に沿って語られているわけじゃなさそうです。数行の空白を挟んで次のパートに移ると、いきなり時間がジャンプしたり、巻き戻ったり、同じような場面をくり返したりしている。ABCDの子供たちがどういう関係にあるかもわかりません。ABCDのパートがひと塊になったそれぞれのブロックは、時間やテーマを共有しているようでもあり、まったく無関係のようでもあります。
という具合に、もやっとしたことしか言えないんですが、何かルールがありそうに見えるけど、一方でそのルールから逸脱するパートがあったりもするんですよ。ああ、この話はここにつながってるのね、なんて思ってると、それを裏切るような記述が出てくる。A→B→C→Dに乗っ取ってない章もひとつだけあります。最初は僕もパズルを解くような気分で読んでいたんですが、どうもそう簡単には割り切れるものじゃないらしい。
「ああ、難しそう」って思う人がいるかもしれませんね。でも、僕が言いたいのはその逆。「そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないか」ということです。ルールを持ち込もうとするから、わからなくなるんですよ。そうじゃなくて、好きなようにそれぞれの断片をつなげていけばいいし、つなげなくってもいい。この仕掛けは、そういう読み方を促しているんじゃないかと思います。
例えば僕は、途中でカート・ヴォネガットの『スローターハウス5』というSF小説を連想しました。ヴォネガットのこの作品には、すべての時間を一望の下に見ることができるトラルファマドール星人という宇宙人が出てきます。この『星座から見た地球』は、そんな宇宙人から見た地球の子供たちのレポートのように思えたんですよ。
トラルファマドール星人にとって、時間は流れるものではありません。だから、すべての時間の断片が同時に存在する。しかも、宇宙人ですから地球人を名前や年齢や性別ではないもので区別しているかもしれません。だから、他の子供と平気で取り違えたりもする。ひょっとしたら、犬猫と子供の区別がつかなくなっちゃうことだって、あるかもしれません。
そういうものだとして読んでみると、宇宙人から見た地球人が異星人であるように、子供っていうのはまさに異星人に思えてきます。大人の理屈なんかおかまいなしに、わけのわからないことを平気でやる生き物。楳図かずおの『まことちゃん』なんかもそうですよね。子供を不思議な生き物として観察すると、この小説のような文章になるんじゃないでしょうか。

何か聞いてくれれば答える用意がDにはある。だが問いかけはといえばもっぱらおんなじことのくりかえし。おしりを見られることにもすっかり慣れてしまったほどだ。むろんおなかがすいたのかだのおしっこしたいのかだのといった問いが場違いであると主張したいのではない。おしっこしたのかと問い詰められればイエスと答えるしかないのだがもっとほかにも聞くべきことがあるのだろうにとDは思うのである。ときに率直にあなたはどこからきたのと問われることもあるがそれは本当にまれなことだった。Dは手足を使って雄弁に自分がどこからきたのかということについて語るのだがむろん一日や二日で済むほどことは単純ではない。だがその二人はといえばそれが若さということなのだろうがしんぼうすることなくもう次の日には自分らの問いかけをあっさり手放しおなかがすいたのとかおしっこしたのとかそういった問いにすりかえてしまう。Dは無念のあまり夜となく昼となくなきじゃくったものである。とはいえじつはDにしたところで人のことをいえた立場にはなかった。そう遠くないうちにパパとかまんまとか答えるだけになってしまうからだ。

A〜Dは子供だと言いましたが、このパートでのDはなんとびっくり、赤ちゃんのようです。Dの年齢を書かずに、徐々にそれをにおわせていくところが巧みです。超絶技巧と言ってもいい。「おしりを見られる」とか「おしっこしたのか」とか、「ん?」と思わせるポイントが少しずつ挿入されていくんですよ。Dに問いかける「二人」とは、両親のことでしょうね。「それが若さということなのだろうが」というあたり、可笑しい。Dのほうが年齢的にはずっと若いんですから。
Dと「二人」の間のコミュニケーションには、齟齬があります。「聞いてくれれば答える用意がDにはある」し、聞かれれば「手足を使って雄弁に」語るんですが、「二人」にはそれが通じない。子供たちは、大人にはわからない子供の原理で行動している。異星人のようなものだというのは、そういうことです。
この作品は、大人には不可解に見えたりもするそんな子供たちの行動を、不可解なものでも当たり前のものでもない、そういうものとして描き出します。大人目線でも子供目線でもなく、観察する目線。すっかり大人の常識を身につけてしまった僕らは、なかなかこういう目線を持てません。だから、「宇宙人から見た地球の子供たちのレポート」なんですよ。
では、こんなパートはどうでしょうか。

まったくようしゃなくコーヒー牛乳は服にしみをつくった。自主的にそれはなされたというのがCの主張だ。コーヒー牛乳がとびだしてきたというのだ。フタを開けたらおそいかかってきたという。あわてて閉じたが間に合わなかったという。それでこうなってしまったのだと両手をひろげるのである。失笑を買うが動じない。こっちといって手をひっぱる。カーテンをめくってみせる。ひきだしを全部開けてみせる。なるほどたしかにCの服とおなじ事態になっている。Cいわくコーヒー牛乳はいたるところにしみをつくりながら病院内を移動しているそうである。おどろいたことにCに異論をはさむものはひとりもなかった。むしろその説明を支持するという。そして早急に対策を練るといい残しその場を去ったことはかえってCを不安にさせた。しかしそれも五分ともたず自分の役者としての力量のたまものであると同室の者らにたいそう自慢したのだった。(中略)やはり地球外生命体だろうと聞こえてくる。まちがいないとも聞こえてくる。先頭に立ってぜひたたかってくれと背中を押される。Cはそこで震え上がる。

コーヒー牛乳で服を汚してしまった子供が言い訳をしてる。僕がやったんじゃなくって、コーヒー牛乳が勝手に飛び出してきたんだ、というわけです。そんな理屈が通ると思っているところが子供なんですが、観察レポートですからそれに対して語り手のコメントはありません。「というのがCの主張だ」となる。
ところが、このパートは後半意外な展開を見せます。なんと、コーヒー牛乳は地球外生物だと大人たちが言い出すんですよ。びっくりです。大人たちはそれを本気で信じているのか、それともCに合わせているだけなのか、そもそも何故大人がそんなことを言うのか。いろいろ解釈はできますが、とりあえずそれを置いといてもすごく面白いです。「Cはそこで震え上がる」というシメのフレーズが素晴らしい。
というところで、文体の話です。この作品、仕掛けもさることながら、僕は文章にすごく魅かれました。淡々としているけどリズミカル。クールななかに立ち上がる詩情。福永さんは、情報の出し方がすごく巧いと思います。「おうち」や「おしりを見られる」ってな引っかかる言葉を、途中にスルッと挟んでくる。このCのパートでは、「病院内」というところで「おや?」っと思います。さらに「同室の者ら」というところで、Cは入院してるということがわかる。こういうのが、読んでいてゾクゾクするんですよ。1行ごとに見える世界が更新されていくような感覚がある。
どのパートを取っても、福永さんの文章の素晴らしさはわかりますが、今度はBのパートを引用してみましょう。ちなみに、Bは女の子のようです。

Bが念じていたのは台風五号のすみやかな北上である。しかし残念ながら昨夜のうちに進路を大幅に変更してしまったのだ。次のやつはまだずっと南だ。したがって高気圧が張り出してご覧のとおりの快晴というわけだ。プールサイドでは気のはやい男子たちが水をかけあっている。Bはその歓声を更衣室で聞いているが表情はまったく最悪といったものである。本当は今日Bは休むべきなのだ。それは正当な行為であって実際に何人か見学している。そこにくわわればいい。全然むずかしいことではなかった。ただそれだけのことがBはできなかった。去年までとおなじでいたかったのだ。

Bは台風の北上を願っていた→北上ってのは台風の直撃を意味する→つまり晴れてプールの授業が行われるのがBはイヤなのだ→Bにはプールを休むべき正当な理由がある→しかしB泳ぎたくないのではなくその正当な理由に向き合いたくないのだ→ああ、だから台風が来ればいいと思っていたのか。というようにわずかこれだけの文章で、僕の思考はくるくると移り変わっていきます。最後の一文まできて、最初の一文から想像したのとは違う場所へと来てしまったことに気づく。「去年までとおなじ」でいたかったとしても、世界は更新されてしまった。Bに初潮が訪れたんです。
世界が更新されていく。今まで見えてたものとは違う世界が立ち上がってくる。それは、子供たちが日々感じていることかもしれません。子供にとって、世界は初めて尽くしです。そのたびに今までとは何かが変わってしまう。さっきまでの瞬間と、今この瞬間はもう別物になっている。同じ名前で呼ばれていても、別の子供になっている。同じ時間を共有していても、別の世界を見ている。そんな風にして、この作品は描かれています。
「星座から見た地球」というタイトルも、考えてみれば不思議です。「星から見た地球」や「地球から見た星座」ではなくて、見る側の視点も常に複数の揺らぎを含んでいる。その揺らぎこそ世界が移り変わる秘密のように思えてきます。ABCDの4人の子供の日々の様々な断片を、星座のようにつなげてみる。それはいくらでも自由に組み替えられる世界で、そのたびに世界が違って見えてくる。星座から見た地球のレポートを星座のように再構築することで、僕らの世界もまた更新されていく。星座をつなぐたびに何度も何度も更新される。

何度かの転校の経験があってそのたびにCの名は出席簿からいったん消えた。市内を転々としたかと思えば県をまたいで別の出席簿の上に現われたこともあった。長居をすることはなくしばらくしてまったく異なる書式のなかに現われる。まあたらしいカルテのなかにCの名が記されたのだ。その万年筆の筆跡はなかなかの達筆だったという。その後も落ちつかず何枚ものカルテのあいだをうろうろした。迷子になったのだ。

Dはこれから見る世界のことをたのしみにしていた。それはもうじきにやってくるはずだった。聞くかぎりそこはとてもにぎやかそうだった。またかなりひろいらしくいろんなところに歩いていかなければならないようだった。むろん歩くだけではなくほかの手段もあるらしかった。ときにかすかな振動が伝わってくることがある。それだけでいつのまにかどこかへ到着してしまうのだ。そういうひとつひとつがDをわくわくさせた。自分がどこまで歩けるかを考えただけでも心臓がたかなった。いろんなところへいっていろんなものを見たいと思っていた。海とか山とか話には何度も出てきた。見ることができるのだろうか。あたらしい家には出窓があっておじいちゃんがいて庭があるそうだ。大きな庭だそうだが海よりも山よりもだろうか。夏になったらかき氷はぜひとも食べたい。いつもDのところへとどくころにはすっかり話とちがうものになっていたから。

ああ、いいなあ。転校するたび世界は変わる。海や山や庭やかき氷に初めて触れるとき、世界は変わる。あっという間に変わってしまうんです。この小説を読んでいると、そんな子供たちの生きる瞬間瞬間が、かけがえのないものに思えてくる。大きな出来事ばかりではありません。大人になったら忘れちゃう、そんなどってことない出来事がほとんどです。それでも、その瞬間が愛おしくてたまらなくなる。それを生きている子供たちに、声をかけたくなるんです。
やほー。君の見ている世界はどんなだい?