八十三年の記憶 -10-

 「つづく」と言いながら何年も休んでいた義父の手記の紹介を再開してみようかと思います。なお、今までの文は、冒頭の「連載」をクリックするとご覧いただけます。


六、平和への願いを込めて 帯広空襲の碑
 この碑は「帯広総合体育館」前庭、帯広警察署東側と三八号線道路の隅にあり、被災地を訪れることの可能な場所にあり、インドみかげ石と言う自然石でできています。
 この碑の前に額づくと五十五年前帯広空襲のあったあの日のことがまざまざと蘇ってきます。戦後生まれた戦争を知らない人、また充員招集により外地にあって外敵に侵されたことのない祖国の安泰を信じ戦地に渡り戦い終わって復員された強度出身の皆さん方に帯広にも空襲のあったこ事をお伝えし永遠の平和を共に祈ろうと記述する次第であります。
 終戦の年昭和二十年七月十五日帯広空襲により250kg爆弾投下と機銃掃射を受け帯広市大通り南一丁目西側六十戸が壊滅し前途ある若者と幼子五名亡くなりました。しかし言論統制のきびしさからこの実情を報道されず帯広市民でさえ知らない人が多かったのです。私も四十年余り知らずに居りました。
 この日防衛招集により私ら古舞の者五名(富○○夫、佐○○夫、片○○雄、前○○男)柏校に起居しておりましてこの空襲に遭遇しました。柏校と啓北校狙って来たそうです。はじめ柏校を機銃掃射をして次に啓北校と鈴蘭公園にある九一部隊(高射砲第二十四聯隊)に爆弾を落として本別市内爆撃に行きました。その空襲を柏校の防空壕より眺めていました。もしあの時爆弾が柏校に投下されたら私ら五名は柏校舎、防空壕諸共、首も手足も胴体から離れぶっとび空高く舞い上がった事でしょう。
 この空襲の碑はその後同町内の被災にあわれた方たちが戦後三十七年ぶりに空襲を語り合いもう二度と永劫戦争のないことを祈って建立の運びになりました。四十年ぶりに此の地に建てられました。

 ここに亡くなった方々の名前を記しつつしんでご冥福を祈りたいと思います。
石川キヨミさん(17才)昭和三年二月二十二日生
  (帯広大谷高女卒業後学徒動員で「新田べニア」に出向していた。
   近所の富樫さんの塀で機銃掃射により心臓貫通で死亡)
高橋昭典さん(16才)昭和四年一月二十日生
  (十勝農学校(現在帯広農業高校)農業科三年在学中で援農に出ていたが、
   日曜で在宅中空襲に会い壕から出て爆死)
高橋和枝さん(九才)昭和十一年五月十四日生
  (帯広小学校三年生 壕から出て爆死)
高橋利昭さん(一才)昭和十九年五月生
広瀬達之(十七才)昭和三年四月二十九日生
  (帯広商工学校(現帯広柏葉高校))在学中学徒動員で
啓北(現総合体育館)校の壕に入っていたが機銃で死亡)
空襲を直接体験された多くの人々が老齢のため亡くなられ、最愛の子供を亡くされた高橋キツさんや石川美津野さんも相次いで死亡されました。


 義父は、中国へ二度出征したのち昭和20年になって地元帯広の防衛隊へ招集されました。そしてそこで帯広空襲を身近に体験しました。中国出征以上に強烈に戦争の悲惨さを実感した義父は、その後帯広空襲を語り継ぐグループのことを知り、その会報に文を寄稿しました。写真は、空襲を語る会の方々と空襲時の地図です)

 NHKの「本土空襲 全記録」を観ました。なになに、重慶を爆撃したから、日本人も爆撃してもいいって?、なんて奴らだ、アメリカは。無差別空襲が3月の東京大空襲から終戦まで続き、大都市から地方都市まで広がり、46万人もの人々が殺されました。これがあたかも日本の自業自得みたいな捉え方なのが気に入らないです。
 ともかくも、本土空襲の中の帯広空襲は小さなひとつかも知れないけど、標的になった人々の心には深い傷跡が残りました。