「ニュー・シネマ・パラダイス」★★★★★

casa_kyojin2007-09-26


僕はこの映画の「完全版」が大好きです。

「映画好きを自称するなら、この映画をプラス評価してはいけない」とか「完全版はダメ」といった空気が、“映画好き”たちの内外にあるとして、その理由を考えてみました。

誤解を恐れずに言えば、この映画の「ファン」には、半可通が多すぎます。
そして、多くの“感動乞食”たちの存在もまた、厄介です。



この映画の“実像”に迫る一つの鍵は、監督・脚本のジュゼッペ・トルナトーレによるオリジナル、いわゆる「完全版」の存在にあると思います。

それこそ、評価の低い“完全”版ですが、それこそがトルナトーレの描いた絵だったことに立ち返って考えてみよう、と。

エレナとの再会、このエピソードがディレクターズカットを「完全版」たらしめていると考えると、この映画のメインのモチーフは、映画への「愛」とか、そのもたらす「感動」といった方向ではなく、トトが失ってしまった故郷やその時間にある、ということが浮かび上がってきます。

そこにおいて、アルフレードは、トトにとって唯一の故郷とのリンクとして機能します。
トトを初めて故郷に戻らせたのが彼の葬儀であり、そして、トトは単に帰郷しただけではなく、エレナと再会することになる。

それは、彼にとって辛い出来事ともなりましたが、その時間旅行によって、クリアになったこともありました。

トトは今まで逃げ回っていた自身の過去との容赦ない対峙を迫られ、そして、自身の失われた時間との間に客観的な整合性を見つけていくことになる。

そして──そういった痛みを経たトトが、ジャン・カルド村で幸せに暮らしていた頃に一瞬時間を巻き戻してくれたのが、アルフレードが遺してくれたフィルムです。

アルフレードのフィルム、あれが映画への「愛」「感動」なのか? 私は疑問に思います。

トトの人生を「お前の愛した映画ではない」と冷静に語ったアルフレードに、それを生業にしている現在のトトにとっての「映画」が、どんな存在であるのか、認知できていなかったわけがありません。

僕は、あのフィルムは、帰省したトトが故郷に対してネガティブな面ばかり見い出すことのないように、アルフレードがトトに遺した老婆心とも言えるタイムカプセルだったと思います。

「この村には、お前の愛した映画(そしてその頃の思い出)があったんだぞ」と。

つまり、あれは「映画への愛」などという形式的なセンチメンタリズムではなく、アルフレードの“不器用だけれど暖かい”トトへの愛です。


ここに至り、この物語の中心モチーフは、

「故郷喪失者が回復不能なまでに失ってしまったもの」

「それでも失わなかったもの」

という対立構図になるはずです。

それがこの物語のペーソスとなり、ただのセンチメンタリズムから世界を遠ざける力になる。


そして、トトは決して失ってばかりいたわけではないので(むしろ映画監督として名声さえ得ている)、その喪失は単なる悲劇にはならず、彼という人物とその人生の陰影となり、この映画を見るものの心を震わせるわけです。


トトがエレナに会いたがったのは、初恋を今もひきずっていたからだ、という考え方もできるでしょう。
しかし、現実的に考えれば、気持ちの上で整理がついていなければ、会うこと自体が難しいはずです。

もちろん、当時のエレナに生き写しの彼女の娘を見て、トトは激しく動揺したでしょう。

でも、エレナとの再会と対話は、彼にとって失ったもの、失われていないものそれぞれを、再確認するきっかけになったと考えるべきではないでしょうか。


母親との対話、そしてエレナとの再会で、トトは自らの人生に一つの区切りをつけた、あるいは、触れないようにしてきた過去の現実を、冷静に追認できたのだと思います。

それは、自分の今立っている場所や、自己認識の補強になっただろうし、今となってはどうすることもできない故郷との断絶と向き合うことにもなりました。

彼は故郷というものを避け続けていた、何ものからか逃げていた……この初めての帰郷は、そういった状態と訣別するための象徴的具象的な多くの行為を彼に求めたはずです。
しかしそれらは、彼にとっての「癒し」にもなったことでしょう。



ところが、劇場公開版ではそれらの焦点が結果的にぼやけてしまいます。

アルフレードの葬儀に出席。それが単なる帰郷で終わってしまい、そこから形見わけのフィルムを上映する映写室につながる。
たしかに感動的かもしれないにしても、それではただの映画監督のセンチメンタルジャーニーにしかなりません。

悲しいことがありました、時間が経ってから故郷に戻りました、過去からの贈り物をもらいました、kiss、kiss、kiss……これではただのお涙頂戴と言われてもしかたないでしょう。

結果的に、彼が故郷を離れたのは失恋のためだけではなく、子牛の屠殺を冷静に見つめるカメラアイがあったからだ、ということまでがぼやけてしまう。
人は失恋だけでは故郷を離れたりはしないし、ましてや新しい土地で成功するようなポジティブな方向性は持てないはずです。

そもそも、アルフレードもトトのその可能性をして、彼を町から出すことができたはずです。

彼はトトを、母子家庭の映写技師が、銀行家の娘とつきあうことが難しいような田舎の閉鎖社会から、断腸の思いで解き放った。心を鬼にして追い払った。
それも彼の朴訥な、その分乱暴にも見えるトトヘの愛です。


もし、トトがあの町に残ったとしてどうなったのか?

エレナが結婚したのはボッチャだというのがその答えの一端を見せてくれます。
銀行家の娘の結婚相手は、5×5が「クリスマスツリー」であったとしても、地方議員、土地の名士になれるような家に生まれた彼なのです。



映画としてはたしかにストレートなセンチメンタリズムの方がわかりやすいのだろうし、尺をつまむ編集が必要とされたとき、バッサリとそうできたトルナトーレ本人の感覚と判断は正しかったと言うべきでしょう。
たしかに、センチメンタルジャーニーの方が、故郷喪失者がアイデンティティーをたどる旅よりも、はるかに単純でわかりやすい。

劇場公開版は、バッサリとハサミを入ったことでテンポがよくなったかもしれない。
メッセージとしてストレートになったかもしれない。
でも、結果的に、そこにはいくつものミッシングリンクが残ってしまった。

「映画としてなってない」とか「ただの感傷主義だ」と言われてもしかたないような不完全性は、そういったところに原因があるはずです。
その不完全なセンチメンタリズムが、逆に「映画好きなら……」という流れを作ってしまったのではないでしょうか。

一方、劇場公開版を「ラストシーンの感激」というベクトルから考えている向き──感動乞食──からは、センチメンタリズムをダイレクトに表現していない完全版は「ダメ」ということになってしまう。

しかしそんな理屈は、半可通の自己満足です。



そして、僕が好きなのは完全版です。

劇場公開版では舌ったらずになっていた部分を、完全版は充分に説明してくれました。
しかし、冗長なのは事実なので、椅子がチープな映画館では見たくないですけれど。

また、直球で感動を投げつけてくるかのような、劇場公開版の「わかりやすさ」も、そうそう嫌いではありません。

しかし、この映画の背骨にあるものは、やはり「故郷喪失者」の悲しい彷徨であり、単純な「映画の愛」とか「映画のもたらす感動」というものではないと思います。


■ニュー・シネマ・パラダイス 完全オリジナル版