モスクワ劇場占拠事件・テルキバエフその後

死んでいた

ずっと、「どうなったんですか、テルキバエフの件は」と聞かれていて、時間ができたので調べてみた。2002年のモスクワ劇場占拠事件には、実はロシア側のエージェントが挑発していた可能性がある。これによらず、「チェチェンによるテロ」と言われる事件には、たいていロシア側の関与が感じられる。さて、リバティの記事によると、テルキバエフはもう死んでいたことがわかった。もう少し情報がたまってきたら、意味を考えてみましょう。

テルキバエフの足取り

2002年10月 モスクワ劇場占拠事件に参加
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2003年3月  ストラスブール欧州評議会にロシア代表随員として出席
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2003年4月  ポリトコフスカヤの前に現れてインタビューに応じる
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2003年4月  リトビネンコからテルキバエフ関連の資料を受け取ったユシェンコフ議員がモスクワで暗殺される
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2003年12月 グロズヌイで交通事故に遭い、死亡

死亡記事(リバティーによる)

2003年12月15日、ハンパシャ・テルキバエフ、チェチェン人ジャーナリストで、2002年のモスクワ劇場占拠事件に参加したと見られている人物が、グロズヌイの近郊で交通事故に遭い、死亡した。インターファックスによると、グロズヌイ地区行政府のシャイードジャマルダーエフは、テルキバエフと同じ車に乗っていた4人の人物も死亡した。事故の原因はわかっていない。今年4月、「ノーバヤ・ガゼータ」のアンナ・ポリトコフスカヤ記者は、テルキバエフがチェチェンゲリラとともにモスクワに移動しつつその行動を助け、劇場を占拠し、ロシア軍の突入直前に脱出したと報じた。このインタビューの中でテルキバエフは、自分がロシアの特務機関から、作戦に送り込まれたのだと語っている。ただし作戦そのものへの参加は否定した。テルキバエフは国営紙「ロッシスカヤ・ガゼータ」の記者証を持っていたとされている。

2003年4月、ロンドン在住の元FSB大佐のアレクサンドル・リツビネンコは、ロシア政党自由ロシアの副議長、セルゲイ・ユシェンコフ議員に、テルキバエフに関する情報を手渡したという。その後まもない4月17日、ユシェンコフ議員はモスクワの自宅前で銃殺された。リツビネンコによれば、テルキバエフはチェチェン抵抗勢力へ浸透し、挑発するために訓練を受けていたという。また、テルキバエフはチェチェンマスハドフ大統領(当時)のプレスサービスに勤めていた過去を持ち、また、(劇場占拠事件の後の2003年3月に)ストラスブルグで開かれた欧州評議会議員総会(PACE)のセッションに、ロシア議会外交委員長のドミトリー・ロゴージンの随員として参加した。テルキバエフ自身がポリトコフスカヤに語ったところでは、自分はロシア政府の中枢にいて働いており、セルゲイ・ヤストルゼムスキー大統領報道官や、ウラジーミル・スルコフ大統領府副長官と、チェチェン各派との対話の道を開こうとしていたという。

RFE/RL NEWSLINE Vol. 7, No. 236, Part I, 17 December 2003