創造と環境

コピーライター西尾忠久による1960年〜70年代アメリカ広告のアーカイブ

[息抜きタイム](680)1965年の発言[今年の広告ビジョン?](5)


広告が効きにくい--


村瀬 最近ぼくは広告がきかなくなったというふうに感じるのです。
例えば同じ広告をやっても世の中がだいぶ変わったので、むしろ広告が
効きにくくなったのか、それともますますもって効く時代であるという
ふうに感じるのか、皆さんどちらに感じますか。


 これはぼくの希望的観測かもしれないけれども、何かコンシューマ
ー教育みたいなものが日本でも少し前進してきたような気もするのです。
そうなると、広告の概念を踏んまえてきちんとつくられている広告の方
が、昔の広告、何かおもしろおかしい広告よりも、注目率が高まってき
ているし、そういうものの方が広告効果の定着をしているのじゃないか
と考えるのです。
ただ何となくいままでの経験というか、そういうものを総合してそう感じ
ているのであって、調査データに基づいて言っているのじゃないのが残念
ですが、そういう感じがする。


土屋 村瀬君のいっているのは、(効く)ということばが入っちゃった
ので、(効く)(効かない)ということになったが、ぼくらは(効く)(効かない)
から少し距離があり過ぎると思う。
大砲を打って当たることはわかるのだけれども、当たってどうなったかとい
うことに関しては、人づてに聞かなければわからない立場ですし、その間に
入っている人間がその情報をこっちに伝えるのにもすごくゆがむだけだ、だ
から効いているとは思うのだが---。


村瀬 銭の使い方に関係してくるわけだけれども、例えばテレビのスポットで
"効いていますわパッパッパ"というやつで何かありますね。
それで確かに現象的にうんと売れているのもある。
ところがほんとうのコミュニケーションの技術だけでいったら(利根の川風)
なんていうのはなかなかおもしろくて子供もみんな知っているけれども、
そこから先果してどういうふうに数字ではね返ってきているのかという
ことになると、疑わしいのが多々あるわけですね。
そうなってくるとメディアの選択とかそういうものがみんな関係しちゃう
わけですね。


 やはりケース・バイ・ケースで、さっきからロを開くとすぐそうなる
けれども、業種だとかがすごく前提になっているはずですよ。
車を買うのに(利根の川風)だったら買わないですよ。


西尾 業種もあるけれども、その会社の規模もありますね。


村瀬 逆にいうと、テレビのスポットをやったって、子供たちには森永より
日清食品の方がでかい会社になっちゃっていると思うのです。
だからこのごろよく会社の格ということがいわれているが、格でもって何
らかの評価をするわけですね。


西尾 ケース・バイ・ケースというのはこういうことでしょうか。
マーケット・シェアに占める地位が3%や5%の企業なら(利根の川風)は効く
かもしれません。
ところが40%とかそれ以上占めているところでは(利根の川風)は効かないでしょう。


 確かに業種のほかにそれも一つの例としてあげられますね。


西尾 シェアをうんと持っている森永さんが(利根の川風)をやっても効か
ないと思う。


 いまの(利根の川風)論は、(利根の川見)というあのテクニックが
3%や5%のシェアならいいということではなくて、広告全般にいえるので
す。
例えはマーケット・シェアが非常に低い製品が広告をする、そういった場
合、その広告が大きなシェア占めているところの援護射撃になるというこ
とも出てくる。
広告全般からいえばそれはいえるのじゃないですか。
そうなると、それじゃ一体マーケットシェアをそれだけ広く押えているのは
何で押えているかというと。
それに対する信頼感みたいなものだと思うのです。それをどうやって醸成す
るかという問題が出てくると思うのです。


西尾 いままで広告に関するいろいろな本がたくさん出たが、書いてあることは
広告一般論ですよね。
もう広告一般論では律し切れなくなった時代がきているのじゃないですか。


 ほんとうにそうですね。




すぐれた広告人を育てる


土屋 比較的悲観的だけれども、にせものが大手を振って横行している時代ではないかしら。
広告というものは文化に対して責任がある。
だったら広告を担当している人に国家試験はオーバーかもしれないけれ
ども、何かそういうフルイがあっていいということをだれかがいってい
ましたね。
しっかりした批評の場がないから、どうも陶汰がうまくいかないという
んですね。


 広告のコピー批評というのはなかなかむずかしいですね。
広告批評そのものがぼくはむずかしいと思うのです。
デザイナーがデザイン批評をするのはできるのです。
これは形とか造型面で見られるわけです。
しかし例えばこのデザインはほんとうにその機能を果しているかという
ところまで踏み込んで批評する、こうなるとまたむずかしくなってくる。
しかしそれの複合体である広告批評というのはなおむずかしいと思う。


土屋 平面的より手がない。
しかし、それでもないよりはあった方がいいと思うね。


 ここに集まっている3人のコピーライターには一致していることと
思うのですが、若いコピーライターが西尾教祖派に心酔したり、土屋
派に心酔したりして、でき上がったものの現象のおもしろさとか、新
しさとかにひっかかってしまって、ただ紙の上だけで勝負をしてしま
う。
そういうものが相当あると思うのです。
デザインには多分にそれがありこの傾向はわりと長いのです。
コピーにはそれがないと、ちっとコピーライターを信じていた。
ところがコピーにもものすごく出ている。
デザインに出ていた何か類型的なある傾向を追いかけることが、コピー
にはわりとなくて、その意味でコピーライターの知性を信じていたのだ
けれども、若い人にそれがないね。


西尾 オグルビーのところで働いていたアートディレクターが12月に来
たので、君んのとこはどうやってコピーライターを養成するのかと聞いた
ら大学を出たらすぐデザイナーみたいになれるとか、アートディレクター
みたいになれるが、コピーライターはそんなものじゃないというのです。
新聞記者とか雑誌記者のいいのを見つけてきて、コピーライターになれと
くどくのだそうです。
こう書けばコピーになるのだし、収入はこれだけあるからなれよというと、
すぐくるそうです。


 ぼくが座談のはじめに広告
の副次的効果ということをいったのは、広告の文化的役割りというものもあ
るということですがいまは広告で売らね
ばならないというから---(笑)それじゃまた話はもとに戻りますけれど、
一体広告を原始的な形でつくっていたのかということになる。
たとえば生産のところまで意見をいったりするということで個々には成功し
ている例もあるけれども、それを組織化するということは、企業が大きくな
ればなるほどむずかしくなると思うのです。
例えはワンマン社長がいて、これをコンサルタントにしちゃって、全部これに
相談しろということをやってしまえば別ですよ。
IBM のノイスみたいに位置を与えられるということなら別だけれども、そ
うでなかったら企業が大きくなればなるほどそれはむずかしいですよ。
その場合に一体広告担当者だとか、その先にある表現を受け持つ人間はどうし
たらいいか、できるだけその間のパイプの掃除をすることは必要かもしれない
けれども、単純に三つに割り切っていいと思うのです。
製造戦と販売戦と広告戦、この三つの戦争があって、広告戦で勝たなければい
けないわけです。
何といったって売れなければすぐ広告が---といわれるでしょう。
それでまず広告費を削ろうという概念がある。
それではおかしいので、製造戦は製造戦で勝ちなさい、販売戦は販売戦でチーム
づくりで勝ちなさい、広告戦も絶対に他社に負けない広告をするという三つの責
任を分離し、そこで戦争させたほうがいいと思う。
例えばソニーがいいからソニーのような広告をやれ、これはばかげたことなんです。
考えてみたらいままでのソニーの広告は下手くそです。あれは製造戦で勝っていた
のです。
広告戟で負けたけれども、製造戦が圧倒的によかったから売れたにすぎない。
広告戦では勝っていない。 もし広告戦で勝っているのなら、ナショナル・パナソニ
ックというものは売れない。
にもかかわらずパナソニックソニーは負けている。
だから広告担当者は広告戦で勝つということをまず旗印に立てて、製造戦、販売戦と
はっきり責任を分離して、企業もそれを認識しなければいけない。
そこから始まらなければいけないような気がするのです。
お互いに責任をなすりつけあわない。
そこで、広告戦で勝つにはどうしたらいいか、いままで広告と販売の相関関係みた
いなものをしゃべっていたのですけれど、一体広告をつくる人間がどういう気構えで
つくっているかとか、つくる人間の姿勢のあやまりだとか、そういうことを解決しな
ければどうにもならないですね。
(完)


予告

明22日(火)からは、『シーモアクワス作品集』(1973刊 アイデア別冊)から代表作品を順次紹介。
氏は、〔プッシュピンスタジオ〕の創設者の一人。

1972年に招きに応じて来日したときのインタヴューと秘話も掲載。↓は、氏がこの作品集のために寄せた表紙。


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