白鯨

白鯨 (上) (角川文庫)

白鯨 (上) (角川文庫)

白鯨 (下) (角川文庫)

白鯨 (下) (角川文庫)

読みました。白い巨鯨、モービィ・ディックに片足を奪われた捕鯨船船長エイハブは、白鯨への復讐心に燃えたち、彼の船ピークォド号とイシュメール、クィークェグなどの船員たちと共に遠洋へと漕ぎ出す。


物語はイシュメールの視点から描かれています。古い物語(1851年!)なので、現代の小説の形式とはかなり違っていて、どちらかというと舞台劇の脚本のようでした。台詞が長くて、状況的な説明、誰と誰が甲板に居る。そこへ誰々が登場、といったように地の文ではなく、注釈として書かれているんですね。それに登場人物の台詞にはとても大げさな比喩や、え、その描写いま要る?みたいな書き込みが多くて、まあちょっと読むのが大変でした。


一方、かなりキャラクターがたっていて楽しかったですね。古典文学ってあんまり読まないんだけど、こういうのはわりと普通なのかな。物語の語り手、イシュメールの鯨オタクっぷりがなかなかすごくて、一般の人が想像する鯨像を否定してこと細かに生態を説明したり、「あ、じゃあ俺が王族の友だちに、鯨の標本骨格見せてもらった時の話する?」みたいに自慢話に持ってってしまったり、あ、これ、現代でもみたことある!っぽいキャラでなんだかちょっと面白かったですね。こいつは延々と鯨のことしゃべりまくりですよ。おたくだー。
イシュメールにはそういう語り手として知識や経験を外部にどんどん発信していく部分もあるんですが、実はこの物語のキャラクターの中で一番正体が分からないのも、彼なんですよね。イシュメールという名も自称でしかないし、鯨にとても興味があっていろいろ調べたりしているのに、研究者というわけでもなさそう。でも鯨の大きさを正確に計測する数学的知識は持っているし(なんなら航海中暇な時に数学の証明とかしてる)、様々な文献、美術に精通する読書家でもあるみたい。哲学にも通じているように、時々比喩に哲学者が登場したりね。なんなんだ、この人。
一番かっこ良かったのはクィークェグという、銛手(もりうち)の蛮族男でした。銛手というのは、鯨が現れたら一番に乗り込んでいって綱のついた銛を全力で打ち込む職業なんですが、これがめっちゃかっこいい。英語があまりしゃべれないので台詞は少ないのですが、イシュメールとは心からの友人となり、同じ銛手の仲間の危機を救ったりと、とても魅力的でしたね。イシュメールやエイハブなど他の水夫はキリスト教徒です。作中にもヨナ記(ヨナは魚にのみ込まれて助け出されたらしい)の言及がかなりあるし、ことあるごとに彼らは神に祈ったりするのですが、このクィークェグには彼の一族独自の信仰があって、その奇妙な儀式にイシュメールが付き合わされたり、キリスト教徒は違う信仰の力を見せたりと、そういう異色の存在感も良かったですね。
他にはスターバック、スタッブ、フラスクなどのボートの運転士が良かった。エイハブが復讐に目がくらみすぎて、かなり常規を逸しているようなキャラクターなのでそのカウンターとして、良心的なスターバック、大胆で好戦的なスタッブ、呑気なフラスク、とエイハブを陰とした時に、陽としての役割をこの3人に割り当てているように思いました。


物語については、うーん少し難しいな。キリスト教的な教義が根底にあるんだろうな、とおぼろげながらには分かるけど、エイハブ船長の復讐心にピークォド号全員がのみ込まれていくように、狂気についてのお話だと思います。狂気というか、善とか悪とかそういう秩序の外側にある、混沌。キリスト教をはじめ人間社会、自然の中にある一定のリズムや法則は秩序だっていますよね。乱そうとしてもいつの間にか元に戻るようになっている。白鯨とエイハブは、その外側の存在です。秩序という概念に真っ向から対立するもの。彼らは混沌を具現化したものだと思うんですよね。白鯨の真意は分からなくとも、その知能や行動は悪魔と呼ばれるような種類のものです。そしてエイハブの復讐のためだけにすべてを切り捨てる態度も。狂気と狂気の戦い。それはただの争乱ではなくて、秩序の領域の外にあるからこそ、どこか神話のような印象がありました。