第4章2節

8節(p.259) からここ↓への参照あり:

コミュニケーションのセルフコントロール

 あるコミュニケーション的行為にあるコミュニケーション的行為が次々と続くばあい、先行するコミュニケーションが理解されているのかどうかの吟味が、そのつどおこなわれている。接続するコミュニケーションがいかに不意に中断されても、そのコミュニケーションを手がかりとして、それが先行するコミュニケーションの理解に依拠しているということを明らかにしたり観察したりすることができるのである。そうした吟味により、否定的な結論になることもありうるし、そうしたばあいにはしばしば、コミュニケーションについての再帰的なコミュニケーションヘのきっかけが与えられる。だが、このことを可能にするためには(あるいはまた可能性をリザーブしておくためには)、なんらかの理解の吟味がつねにあわせておこなわれなければならず、そのためつねに注意の一部が理解のコントロールのために割かれているのである。

それゆえにヴァリナーは、「確認」をあらゆるコミュニケーションの不可欠のモメントであると論じている10
10) Charles K. Warriner, The Emergence of Society, Homewood Ill. 1970, S.110ff. を参照。 とりわけ重要なのは、次の洞察である。すなわち、
  • まさしくこうした「確認」において、コミュニケーション過程の相互主観性が現実化されており、
  • また他方では、そうしたコミュニケーション過程は、相互主観性に基づいて進められている。
「行為者双方によるこうした確認の営みによって、コミュニケーション過程が成就している。そのさい、相手が「意図していた」ことがらがなんであるのかを、どちらの行為者も知っているということを、相手が知っているということを、どちらの行為者も知っている。」(p.110)

このことは時間を必ず前提としている。

  • 接続する行動において、理解されているのかどうかがはじめて点検されうるのである。
  • そうは言っても、理解されることを期待しうるように、わずかばかりの経験によりコミュニケーションをあらかじめととのえておくこともまた可能である。

いずれにしても、個々のコミュニケーションはいずれも、その次のコミュニケーションヘの接続連関を理解しうる可能性を有し、その理解を点検できる点で回帰的に保証されている。そうでなければ、個々のコミュニケーションばまったくありえないであろう。個々のコミュニケーションは、どんなに短く、あるいはどんなに束の間であれ、コミュニケーション過程の要素としてのみ要素なのである。[p.224-5]


すぐ続けて:

自己点検と〈基底的/過程的〉自己言及

 このばあいに、まず第一に重要なのはまさに基底的自己準拠である。すなわち、コミュニケーション過程は、諸要素(諸出来事)から成り立たなければならないのだが、そうした要素は、この同一の過程の他の諸要素と関連することをとおしてその当の要素それ自体にかかわっている、ということが肝要なのである。
それにくわえて、基底的自己準拠は、より特別な仕方において必要とされているさらなる戦略[=再帰的コミュニケーション〜定式化]の前提条件である。

  • 理解が点検されることが承知され、そのことを考慮に入れなければならないばあい、理解しているふりを装うことも可能である。
  • 理解したふりを装っていることを見抜くことができるのだが、そうであるにもかかわらず、見抜いていることをコミュニケーション過程においてにおわすこともまた回避できる。
  • さらに、理解しているふりをすること、およびそれを見抜いていることについてはコミュニケーションしてはならないということが、メタ・レベルでコミュニケーション可能なのである。そしてこのばあいもまた、このメタ水準でそうした了解を再度点検できる。
しかし、このようにして

コミュニケーションが継続的に確認されると、なによりもまず、コミュニケーションに関するコミュニケーションヘのきっかげが、かなり頻繁に作り出されることになる。コミュニケーションについてのコミュニケーションというこうした分岐をとくに、(基底的自己準拠とは区別して)再帰的コミュニケーションと名づけることにしたい。この より高次の段階にあり、明示的な、またそれだけにいっそうリスクの高いコミュニケーション制御、つまりは再帰的コミュニケーションという特別のケースにあてはまるコミュニケーション制御については、あとで*詳しく説明することにしたい。[p.225]

* p.239 以下

4章5節

p.239-241

言語と再帰性──再帰的コミュニケーションの分化

[言語がなくてもコミュニケーションは生じる。しかし言語がある場合、コミュニケーション過程は知覚のコンテキストから分出しうることになる‥‥]

コミュニケーション過程のそうした分出をとおしてはじめて、社会システムの分出が実現可能になる。こうしたコミュニケーション過程は、言語によるコミュニケーションからのみ成り立っているのではない。だが、こうしたコミュニケーション過程が言語によるコミュニケーションに基づいて分出されているということは、社会的行為において、それどころかさらに社会的知覚において見いだされるもののすべてに甚大な影響を与えている。

言語行動が簡明的確さ、注目のひきやすさ、および注意のしやすさの点で格別に卓越しているということだけが、コミュニケーション過程の分出に寄与しているのではない。同様にまた、

言語によってコミュニケーション過程の再帰性(Reflexivität)が保証され、そのことによってコミュニケーション過程の自己制御が可能とされているということが重要なのである。
 過程が再帰的になるのは、過程がその過程それ自体に対してもまた適用されうるばあいである。コミュニケーション過程の再帰性は、コミュニケーションについてのコミュニケーションが可能であることを言い表している。そうした再帰的なコミュニケーションにおいては、

  • コミュニケーションの成り行きをテーマとして取り上げることができるし、
  • 言明されたことがらがどのようなものであるのかを問いかけ、解明することができるのであり、
  • コミュニケーションを切断したり、コミュニケーションを拒絶したり、コミュニケーション連関を調整したりすることなどが可能である。

そうしたばあいには、いずれも情報と伝達の差異がその根底に存している。ただし、再帰的なコミュニケーションのばあいには、コミュニケーションそれ自体が情報として取り扱われており、伝達の対象になっている。このことは、言語なしにはほとんど不可能である。というのも、コミュニケーションとして感受されただけでは、その後のコミュニケーションをどうするのかが一義的に明らかにされるわけではないからである。このばあいも例にもれず、コミュニケーション過程が再帰的になるということは、コミュニケーションが再帰的知覚のコンテクストから]十分に分出することと、その過程の機能的特定化とを前提としている。というのも、コミュニケーション過程がそのコミュニケーション過程それ自体に立ち返って関係づけられる可能性は、言語によってはじめて、いかなる時点においても見いだされ、比較的問題なく処理でき、別段驚くことのない可能性となるからである。

 さらにそうした再帰性それ自体は、いっそう高次の複合性やいっそう先鋭な選択性の有しているリスクを補償するのに役立つことができる。疑問なばあいや意思の疎通が難しいばあいにそれが何であるか問い合わせることができるのであれば、これまで期待されなかった伝達や、いままでとは異なる伝達を敢えておこなうことができるし、いっそう簡潔にみずからの考えを表現できるし、吟味せずに理解の地平を前提とすることができるし、あるいは互いにまったく知らない人びとがコミュニケーションできたりするのである。コミュニケーションをとおして意思の疎通が首尾よくおこなわれたのか失敗に終わったのかに関してコミュニケーションできる、あのメタ水準のコミュニケーションがつけくわえておこなわれるのであれば、直接のコミュニケーションにおいて、すべてのことをあらかじめおこなう必要はないのである。

再帰的コミュニケーションの遮断*

 言語によるコミュニケーションにおいては、そのコミュニケーションそれ自体へ再帰することがあまりにも容易におこなわれているので、そうした再帰を排除するための特別の遮断機が必要になる。そのために、隠喩的な言葉や比喩の意図的な使用、意図された両義性、パラドックス、ユーモアに満ちウィットに富んだ言い回しといった遮断機でこうした再帰が排除されることになる。それと同時に、こうした言語形式は、なぜ、どうしてそうたのかと問い直すことがナンセンスであるというシグナルを伝えている。こうした言い方は、その瞬間においてしか機能しない──そうでなければ、そもそも機能しない。

*「再帰性の遮断」については、11章5節[p.825]で再説される。

節のまとめ

 本節の以上の考察により、コミュニケーションが強化されるという事態がいかにして成り立つのかが見分けられた。そのすべては、コミュニケーションの出発点となる情報と伝達の差異がしつらえられるかどうかにかかっている。このことの核心は、情報と伝達という二つの選択的な出来事が観察者によって区別されることに存している。このことがたしかにおこなわれるのであれば、そのことにさらなることがらが接続できることになり、それに関連して期待が形成され、そのことに相応して特定された行動つまり発話がおこなわれ、コード化されうることになる。もともと概念というものはさまざまに規定されうるものなのだが、とくにコミュニケーション概念については、膨大な数の、まさしく多種多様な提案が存している。本書では、コミュニケーションをそもそも可能にしているもの、すなわちコミュニケーション過程を構成し、それに自立性を付与している差異に焦点を合わせることをもって、コミュニケーション把握の基底にすえている。

4章第6節

p.243

 なによりもまず興味深いのは、コミュニケーションがそれぞれ単一のユニットeinzelne Einheitとして

たとえば警告の呼び声として、救いを求める声として、ただちにかなえられうる願い事として、挨拶として、ドアの前でどちらがまず通り抜けるかの問題の合意として、映画館の入場券の購入として

現われることは まれにしか起こらない、ということである。この種の単一なコミュニケーションは、しばしば言葉を用いずに、あるいはほとんど言葉を使用せずに可能なのだが、どのばあいでもコンテキストに強く結びついている。

過程的自己準拠=再帰的コミュニケーションの、過程形成による分化

コミュニケーションという事象がより強力に分出するためには、かなりの数のコミュニケーション ユニットが一つの過程──先に述べたとおり、多数の選択的出来事の、交互的な条件づけをとおしての時間的な結合と解される過程──に結びつくことが必要になる。このような分出を成し遂げるためには、新たな種類の自己準拠[=過程的自己準拠]を手に入れることになるコミュニケーションの処理過程が必要である。そうしたコミュニケーション過程は、その過程においてその過程それ自体に反応できる。

たとえば、コミュニケーション過程では、必要とあらば、すでに話されたことを再び繰り返したり、補ったり、修正することが可能である。またこの過程では、あることを提言したり、それに反論したりすることが許容されている。

さらにこうした過程は、その過程それ自体がコミュニケーション過程として取り扱われることにより、再帰的になることができる。こうした過程が分出して、そのおかれたコンテキストから相対的に独立することは、その過程内部の整序された非任意性を明らかにその前提としている。というのも、コミュニケーション過程は、そうしたばあいにのみ、状況のいかんによって理解されたりされなかったりする事態を脱して、それ自体の力能で、理解しうるコミュニケーションが可能とされるからである。しかしながら、そもそもコミュニケーションはいかにしてそうした過程になりうるのだろうか。

 

ここからが本節の主題:
再帰的コミュニケーション=過程形成の可能性条件:〈テーマ/貢献〉差異 について [p.244-247]

[040604]

ここでもまた再び、なんらかの特別の、機能特定的な差異、くわしく言えばテーマと寄与Themen und Beiträgen の差異がそうした可能性の条件として機能を営んでいると考えられる。コミュニケーション連関は、しかるべきテーマヘと諸寄与が関係づけられることのできる、そうしたテーマによって整序されなければならない。テーマは、寄与を越えて持続しており、短期間であれ長期間であれ、寄与よりも長い時間にわたって存続している意味連関へとさまざまな寄与をまとめあげている。二、三のテーマについてはいつまでも語ることができるし、別のテーマについてはほとんど際限なく語ることができる。また誰が何を寄与できるのかに関しても、テーマをとおして規制することができる。テーマのいかんによっていかなる寄与なのかが弁別されており、寄与をおこなう人も識別されている。そこでたとえば、そこに居合わせる人が誰でもなにほどか寄与しうるテーマを選ぶことは、うちとけたコミュニケーションの必須要件なのである。そうしたテーマは、その人の個人的独自性が他の誰よりも優れているとそそのかされることなしに、みずからの寄与として見分けられうる、十分に個別的な寄与をおこなうチャンスを各人に与えているテーマのことにほかならない。

[040605]

テーマと寄与の差異は、「水準の差異」として不十分ながらも特徴づけられる。
テーマと寄与の差異によって、内容的には否認可能性が調整されている。

  • 一方では、テーマ化の閾が存している。たとえば、卑猥な言動、信心深さないし信仰告白、あるいは一般に心的葛藤の種といったものが存している。
  • 他方では、テーマの受容を前提としたうえで、それぞれの寄与に対してネガティヴなコメントがくわえられたり、寄与されるものが拒絶されたり、訂正されたり、修正されたりすることが可能である。
    テーマが受容されるばあいに、あまりにも多くの寄与は否認されざるをえないということが考慮に入れられなければならないことから、テーマ化の閾が高く設定されるようになるとみてよい。
そうしてみると、テーマと寄与の水準の差異によって、あまりにもコンパクトな否定の傾向──それゆえに不可避的に個々の人間にあてはめられる否定の傾向が──解消されている。このことに対して、個々のパースンがコミュニケーション連関のなかでますます明確に際立ってくる度合いに応じて、近代初頭の文学が注意を払い始めているのは偶然ではない。

[040606] 主題選択の事項的/時間的次元

  • 【事象的次元】 テーマは、事象的な意味内容を有しており、それに基づいていくつかの寄与を整合することが可能である。
    たとえば、女優の情事、株式相場とその解説、新刊書、外国人労働者の子供がテーマになるだろう。こうしたテーマの特定化には──コミュニケーションをさらに続けることに対する関心から生ずる限界を除いて──限界が設けられない。
  • 【時間的次元】 しかしながら、テーマもまた時間的側面を有している。人びとはテーマに対するこれまでの寄与を思い出すことができる。
    テーマは、古くからのものだったり、新しかったり、すでに飽き飽きしたものだったり、またはなお興味のあるものであったりしており、関与者が異なるとテーマとのかかわり合いはさまざまに異なってくる。
    ・テーマは、いつかはもはや新たなる寄与を期待できない飽和状態に達する。そうなると古いテーマが生き残るためには、新しい関与者を補充しなければならない。
    ・逆に、ある種のテーマは多くの関与者にとってあまりにも新しくなじめないがゆえに、およそ有意義な寄与に駆り立てることができないかもしれない。

[040607] 主題選択の社会的次元

【社会的次元】 このことについて最後に指摘したいのは、「社交」の例がすでに示唆しているとおり、テーマ選択の社会的的側面もまた重要である、ということである。

この社会的側面ということで、互いに気心が合っていることだけが念頭におかれているのではない。言い換えれば、テーマによって関与者たちやかれらのおこないうる寄与が相互に多少なりとも折り合いがついているということだけが考えられているのではない。

とりわけテーマ選択の社会的次元が顕在化するのは、コミュニケーションをするさいに関与者たちが可視的な行為のやりとりをすることに多少とも拘束されているばあいである。

[相互作用における再帰的知覚というコンテクスト]

つまり、関与者たちがコミュニケーションによって、みずからの意見、みずからのかまえ、みずからの経験、みずからの願望、みずからの分別のある判断、みずからの関心など、自分自身についての何かを言い表すことで、この社会的側面が顕在化することになるのである。

コミュニケーションは、また自己を呈示し合い、互いに知り合いになることに役立っている。そうであるがゆえに、コミュニケーションは最終的な効果においては、人びとがなんらかの表現様式をとらざるをえず、結局のところコミュニケーションにおいて表示されたとおりに在らねばならないということになってしまうのである。つまり誘惑者は、相手を愛さなければならないことになる。

10章3節 相互行為:「居合わせる」という選択原理

[040608]道徳的テーマの場合

 こうしたコミュニケーションの拘束効果は、コミュニケーションのテーマが道徳的倍音を帯びるばあいに先鋭に現れるのだが、道徳的テーマであればなおさら先鋭化する。
道徳によって、相互の尊敬または軽蔑の諸条件が規制されている。したがって、コミュニケーションの道徳化に適したテーマであれば、相手からの尊敬を引き起こすことが可能である。いいかえれば、そうしたテーマによって自分自身を尊敬に値するものとして呈示して、相手がそれに異議を唱えるのを困難にすることが可能なのである。角度を変えて言うと、誰が尊敬に値するかについてテストできるのである。尊敬のための諸条件というネットで相手を捕らえて、そうした諸条件に相手を従わせることができる。さらには、相手を道徳的な自縛へとそそのかし、そうすることで、相手に勝手なことを許さなくなる。あるいは、道徳化によって、特定の相手を尊重することにいささかの価値をも認めないことを明らかにすることができる。社会の人びとが道徳を手がかりとすることによってどれだけ多くの自由を可能とするかに応じて、道徳は、デュルケーム学派が考えた以上に、人びとの間の連帯の強化に資することもできるし、また逆に相手に対する批判、相手との距離の獲得、さらには相手とのコンフリクトを強調することも可能なのである。

[040609]

 そうしてみると、テーマは、事象次元、時間次元、および社会的次元においてコミュニケーション過程の構造として役立っており、そのさい、

いかなる寄与が、いつ、どんな順序で、誰によって提供されるのかをテーマが決定しないかぎりは、

一般化としての機能を営んでいる。したがって、テーマの水準で、個々のコミュニケーションにおいてはほとんど可視的にならないであろう意味連関が顕在化しうるのである。それゆえ結局のところ、コミュニケーションは、不可避的にではないが典型的には、テーマをとおして制御される過程にほかならない。

同時に、テーマは、言語によって開かれた複合性を縮減しているのである。コミュニケーションにとって、言葉で表現するさいの正しさのみでは十分ではない。テーマを手がかりとしてはじめて、自分自身のコミュニケーション行動の正しさや他者のコミュニケーション行動の正しさについて、テーマとの適合性に照らして点検できるのである。そのかぎりにおいて、テーマはいわば言語の行為プログラムにほかならない。

たとえば、ネズミをネズミ捕り器で捕えるもっとも良い方法が何であるのかということしか問題にならないばあいでも、数々の寄与が可能だが、もはやなんでもよいというわけではない。テーマによって十分に前もって方向づけられることにより、みずからの寄与をすばやく選ぶことができるし、他者の寄与と適合しているかどうかを点検できるのである。さらに捕まえられたネズミがどんな苦痛を味わっているのかを手がかりとして、関与者たちの道徳的感受性を吟味できるのであり、ある人自身からみて、また他の関与者たちにとって、そのテーマが論じ尽くされたと考えられるのであれば、テーマを取り替えることができるのである。

4章8節

コミュニケーションは見ることができない。

こうしたコミュニケーションについての分析*のもっとも重要な帰結によると、コミュニケーションは、直接には観察されえないのであり、コミュニケーションは推定されることによってしか接近されえない53

53 この点にもまた、社会学者がコミュニケーション概念よりも行為概念から出発するのを好む理由が存していると見てよい。Warriner a.a.O. S106 をみよ。「コミュニケーション理論にみられる根本的な問題は、社会科学者が、直接に観察できないものを取り上げたがらないことに存している。」

したがって、

  • コミュニケーション・システムが観察されうるためには、あるいは
  • コミュニケーション・システムそれ自体が観察しうるためには**、

コミュニケーションシステムは、行為システムとして明確に標識されなければならない。コミュニケーションシステムが同時にすすめている自己点検──それについては先→2節(10)に述べたのだが──が その機能を果たしうるのも、
p.259

* 「象徴的相互作用論の」ということ???
** なんと。「観察不能性」テーゼは、一次の観察にも二次の観察にもあてはまる、ということなのだった!

基底的自己言及においても、いつもつねに 帰属過程をとおした行為への縮減(という自己観察)が生じている(?)

 情報と伝達の区別に応じて、行為は二つの異なるコンテキストで、すなわち、

  • 一つには、情報として──ないしコミュニケーションの主題として──、
  • また一つには、伝達行為として、

社会システム──つまりコミュニケーション──にとって重要な構成因となる。[‥]

 したがって、社会システムは、コミュニケーションという基礎なる出来事に基づいて、またコミュニケーションのオペレーションを進める行為と関係づけられることをとおして、行為システムとして構成されることになる。[‥]

 それぞれの行為は、帰属の過程Zurechnungsprozesse をとおして構成される。行為が成立するのは、なんらかの根拠からか、なんらかのコンテキストにおいて、なんらかのゼマンティク(「意図」「動機」「利害関心55」)によって、選択がシステムに帰属されることによってなのである。この行為概念は、心理的なものを顧慮しないがゆえに、行為についての十分な因果的説明をおこないえないことは明白である56。本書で選ばれた行為概念において肝要なのは、選択が、システムの環境ではなく、システムに関係づけられること、ならびにこのことに基づいて、次のコミュニケーションの受けて、次の行為の接続点が、そのための根拠として何が訳にたとうとも、定められているということである。

[p.260-1]