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ISBN:4588009222

  • p.1184 本章のテーマ: 全体社会の自己記述のための・に用いられる歴史的ゼマンティク
開始頁数時期訳者タイトルトピック
011163[03]全体社会の到達可能性{主体/客体モデルを使う代わり自己記述モデルを使うことにしましょう}
021166[11]主体でも客体でもなく【迂回路】自己記述理論は主体の理論からどれほどのことを学び得るか。
  • 自己言及的に作動することにより基準なしに自己同定がなされる (1167)
  • 作動は反省に依拠せずにおこなわれる
  • 意識的作動は無意識的基礎をもつ (1969)
031177[14]自己観察と自己記述
041191[23]ヨーロッパ旧来のゼマンティク1:存在論中世の三身分。存在論(17c.)。
051214[23]ヨーロッパ旧来のゼマンティク2:全体と部分アリストテレス。社会的法人、同一性代表(中世)。代表=表出の難点から生じる諸問題(法と宗教)。カント(成熟・未成熟)
061237[20]ヨーロッパ旧来のゼマンティク3:政治と倫理koinonia → societas - communitas → oikos / polis。人間〜倫理・エートス。|善/悪(近代)。社交(17-18c.)
071258[05]ヨーロッパ旧来のゼマンティク4:学校の伝統口頭による知識の受け渡しについて。中世(自由七科)。ラムスの弁証論(16c.)。アカデミー(16c.以降)。教育システムの分化の開始(18c.以降)
081263[05]ヨーロッパ旧来のゼマンティク5:野蛮から(自己)批判へ〈中心/周辺〉図式について(内的に処理できない非一貫性の外部化)。文化(18c.後半)〜イデオロギーマルクスの資本主義批判 19c.)。
091268[29]機能システムの反省理論ルネッサンスにおける現在と過去の分断(伝統)。国家理性・貿易収支(16c.)。(ヨーロッパでは)市民社会の経済的理解→〈市民社会/国家〉(18c.末)。|反省エリート(教育学者・法律家・進学者)。|政治理論:p.1276、認識論:p.1279、経済理論:p.1282、法理論:p.1285、教育:p.1288、美的芸術:p.1289。宗教と家族:p.1291。
101297[07]メディア-ゼマンティクにおける対立全体社会の批判において扱われる二つの齟齬:[1] 技術か可能性の限界が機能領域ごとに異なること(eg. マルクスの政治経済学、フッサールの科学批判)。[2]「限定性/個別主義」の対立(eg.避難所としての家族、芸術、宗教)。
111304[08]自然=本性とゼマンティク
121322[21]時間化歴史。
131334[23]主体への逃走
141357[11]道徳の普遍化
151367[11]諸国=諸国民の区別
161378[06]階級社会
171384[21]同一性のパラドックスと、区別によるその展開
181406[07]20世紀中盤近代化
191413[08]20世紀後半記述形式としての情報とリスク機能領域に関連づけられない普遍的な社会記述:情報化社会とリスク社会。
201421[15]20世紀マスメディアと、マスメディアによる自己記述の選択世論(18c.以降)とマスメディアシステム
211436[21]不可視化──観察者という《マークされない状態》とその移動社会科学における価値自由とその対案
221457[17]反省されたオートロジー全体社会の中での全体社会の社会学的記述としての全体社会理論
231474[07]いわゆるポストモダン

09 機能システムの反省理論

研究の目的方針について述べた箇所。p. 1272-1273

旧ヨーロッパのゼマンティクが──それとともに自然=本性に、理性に、倫理に向けられた期待が──終焉を迎える(…)日時を特定することなどできない。その腐食現象がきわめて可視的になっているにしても、である。同様に、ゼマンティクが伝統的なものから近代的な(…)ものへとブレークスルーすることが、18世紀初頭のわずか数十年において生じたと想定するのも、疑わしくなる。
 社会状態の直接的記述に関しても、また歴史に関する了解についても、同じことが言える。[…] 近代社会は、全体社会の中で全体社会を代表=表出することなしにやっていかねばならない。そして近代社会はそのための、旧ヨーロッパのゼマンティクが有していた独特の閉鎖性と説得力に匹敵しうるであろうようなゼマンティク上の形式を、まだ見いだせていないのである。
 それゆえに 近代社会への移行において生じた連続性の断絶を発見するためには、語と概念の歴史という表層構造だけを頼りにするわけにはいかない。そこにおける素材が、われわれの立証活動のためのデータベースを提供してくれるにしても、である。われわれはより社会学的なアプローチを採用しなければならない。そしてこの目的のための出発点として、本書第四章で論じてきた、分化形式の転換というテーゼを選ぶことにしよう。近代社会は、機能分化の優越という点で際立っている。これが正しいとすれば 旧ヨーロッパの伝統との関係における断絶点は

活版印刷術という新たなテクノロジーだけに帰するわけにはいかない以上、

次の点に求められなければならなくなるだろう。すなわち、分出を推し進めたシステムの自律性と固有の動態とが目視可能となり解釈が要求されるようになったその〔時〕点に、である。

「「断絶」が言えるのだとしたら、それはシステム分化(の形式の転換)としてだ」という限りの主張であれば賛成できるが、それ以上のことを言ってしまっているように思われる。

「目視可能となり解釈が要求されるようになった」という表現は、研究の目標を──「作動の様式」ではなく──「観察=記述」の水準に定めているように読める。なぜそうするのだろうか。