ルーマン『Liebe: Eine Übung』

また遺稿? もうお腹いっぱいです。

Liebe: Eine Uebung

Liebe: Eine Uebung

Individuen kann man bekanntlich daran erkennen, daß sie einen Knick in der Optik haben. Sie gewinnen allen öffentlich zugänglichen Dingen und Ereignissen einen zweiten Sinn ab, der zunächst einmal nur für sie selbst zugänglich ist. In dieser höchst persönlichen Optik mag dann etwa als Langsamkeit eines Mitmenschen erlebt werden, was dieser der Ungeduld des Erlebenden selbst zurechnen würde. Besonders konsensfähig ist diese individualisierte Art des Erlebens also nicht. Immerhin kann der Fall eintreten, daß ein anderer, statt einfach nur mit dem Kopf zu schütteln, sich in meine Weltsicht hineinversetzt und dann sogar anfängt, sie durch eigenes Handeln zu bestätigen: Statt mir Ungeduld vorzuwerfen, handelt er selbst etwas schneller. Für die anderen ist mein Erleben dann immer noch unmaßgeblich, aber für den anderen hat es offenbar die Kraft eines starken Motivs. So wird es mir leichter gemacht, der zu sein, der ich bin. In dieser Bestätigung fremden Erlebens durch eigenes Handeln sieht Niklas Luhmann die kommunikative Grundlage dessen, was wir Liebe nennen. Sein 1982 erschienener Klassiker Liebe als Passion hatte vor allem die Ideengeschichte des Themas vor Augen. Der nun edierte Aufsatz, geschrieben 1969 als Vorlage zu einem der ersten Bielefelder Seminare Luhmanns, behandelt die Liebe ohne den Apparat des Gelehrten. Er bietet eine direkte und pointierte Darstellung der bis heute einzigen soziologischen Theorie der Liebe, die wir haben.

Liebe

村上『〈法〉の歴史』

おもしろかったのでもう一度読んだ。

〈法〉の歴史

〈法〉の歴史

v「仮想現実としての近代法:4仮想現実の一面的現実化──ドイツ」から。ヴィントシャフトのパンデクテン教科書(〜パンデクテン法学)の解説、のあと。(改行とか勝手に入れてあります)

 現代のドイツの法学部学生のために書かれたブルクハルト・ヘスの「事案処理の方法」によれば、

包摂は二段階に分けて行われる。

  1. まず、もろもろの用件要素が明らかにされ、その意味が一目瞭然でないときは解釈がなされる。法条〔「契約締結上の過失」のような慣習法的規範をも含む〕の正確な意味が解明されて はじめて第二段階に進み、
  2. 事実関係が法条の諸要件を充たすかどうか〔事実関係が法条に包摂されるかどうか〕が吟味されるのである

「事案処理」にさいしてこの第一段階(大前提の確定)から出発しないレポートや筆記試験は合格点を貰えない。次に、ヘスが例(犬に噛まれた被害者Oが犬の保有者Hに対する損害賠償請求権をもつか、という設問)を挙げて説明する箇所を引用しよう(【】はヘスの説明)。

OのHに対する請求

民法833条1段による請求 【請求の基礎は正確に挙示しなければならない。】

一 責任を基礎づける要件

  • OがHに対し損害賠償を求めうるか否かを検討しなければならない 【これが事案の設問である】
  • 〔ドイツ〕民法833条1段が請求の基礎になるかもしれない 【設問が接続法〔第二式〕の形をとって具体的な問題になる】
    • その前提として、Oが傷害を受けたことを要する 【第一の要件要素の確認】
      • 本件では問題のシェパードがOの手を噛んだ 【包摂】
    • 傷害は「動物による」〔民法833条1段〕ことを要する 【第二の要件要素】
      • 「動物による」とは、傷害が動物に特徴的な危険によってもたらされたという意味である。動物に特徴的な危険は、とりわけ、動物の行動が予測不可能だという点にある 【定義】
      • 本件の事実関係によれば、シェパードは、Oが突然動いたために驚いてOを攻撃し、噛みついたものである。したがって、これは、動物の予測不可能性を端的に示す反応である 【〈動物の危険〉のもとへの包摂】
    • 損害賠償請求の相手は、動物保有者である 【第三の要件要素】
      • 動物保有者とは……。
    • 最後に、犬は、〔飼い主の危険責任が問われる〕愛玩動物であると思われる 【第四の要件要素】
      • ……。
  • 以上によれば、責任を基礎づける要件要素は存在する 【中間結論の確定】

 このように、演繹的な第一段階と帰納的な第二段階に分けて包摂過程を文章化すること、特に文章化にさいして第一段階(演繹的な部分)を省略せず、順序正しく要件要素を明確化してはそれに要件事実を包摂してゆくことが、ドイツの法律家の考える論理的・合理的な「事案処理」なのであり、この技術を教え込むことがドイツの法学教育の核心を為しているのである。いったいなぜ、ドイツの法律家は、演繹的な第一段階を含めた包摂過程の文章かにこだわるのだろうか? [...] 法的決定の多くが法律から直ちに導きだせないものであることは、ドイツでも古くからの常識である(ヴィントシャイトを見よ)。それにもかかわらずドイツの法実務、したがって法学教育が包摂過程の文章化を重視するのはなぜか? ルーマンのシステム理論に従って、問題の整理を試みよう。[p.157-159]

えっーーー!


ところで、「Oが突然動いたためにシェパードはOを噛んだ」のだから、これは「Oの予測不可能性を示す事例」ではないのですか。


これ面白そう。