じじぃの「人の死にざま_502_D・デフォー」

ダニエル・デフォー - あのひと検索 SPYSEE
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Daniel Defoe 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Ggs9L_peAdQ
ロビンソン・クルーソーの冒険 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=4JID1NyrgXg
ダニエル・デフォー フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ダニエル・デフォーは、イギリスの作家、ジャーナリスト。『ロビンソン・クルーソー』を書いたことで有名。
【生涯】
本名はダニエル・フォー。ロンドンの肉屋ジェームズ・フォーの息子として生まれた。彼は後に貴族的な響きを持つ"De"を名前につけ、ダニエル・デフォーペンネームとした。これはフォー(foe)には「敵・反対者・障害」という負の意味があったのを嫌ったためとされ、“ダニエル・デフォー”のペンネームに落ち着くまで、“ダン・フォー”や“ダン・デ・フォー”と、何回かペンネームを変更している。
デフォーは有名なパンフレット作者、ジャーナリストとなり、そして、英語での小説が書かれ始めた時期に作家となり、先駆者の一人として知られる。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
デフォー (1660-1731) 71歳で死亡 (一部抜粋しています)
メリヤス商、貿易商、煉瓦商などの承認をやったり、反政府党の兵士となったり、政論家となったりする間、入獄したり国外逃亡したり、波乱万丈の人生を経験したダニエル・デフォーは59歳のときに書いた『ロビンソン・クルーソー』で1山あて、以後臆面もなく同傾向の作品を書きまくって巨富を得たが、69歳のとき大邸宅から姿をくらまして小さな隠れ家にひそみ、71歳のとき寂しくこの世を去った。
ぜいたくな生活の結果負債が山積したせいとも、不肖な息子との不和のせいともいわれる。
死んだとき、当時の週刊誌「ユニバーサル・スペクテイター」は「過日ダニエル・デフォー氏逝く。氏は多数の著作を書いた知名の人」とだけ報じ、『ロビンソン・クルーソー』については、一語もふれなかった。
ただ「多数の著作」の中に十把ひとからげにされたこの著者は、その後、その一篇だけ不朽の生命をもって伝えられるようになった。

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ダニエル・デフォー Google 検索
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じじぃの「体験語る・介護!田辺鶴瑛の世界」

田辺鶴瑛プロフィール
http://www.tanabekakuei.net/akabi/kakuei_04.htm
ふらっと 講談師 田辺鶴瑛さん
http://www.jinken.ne.jp/aged/tanabe/tanabe5.html
田辺鶴瑛 Google 検索
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いっと6けん 「体験語る“介護”講談」 2011年1月26日 NHK
【キャスター】石井麻由子 【ゲスト】講談師 田辺鶴瑛
http://www.nhk.or.jp/shutoken/6ken/
どうでもいい、じじぃの日記。
1/26、NHK いっと6けん 「体験語る“介護”講談」を観た。
大体、こんなことを言っていた。 (手抜きをしている)
講談師・田辺鶴瑛さん(54歳)。自らの介護経験をもとにした"介護講談"を全国各地で披露しています。
講演会場で介護講談をしている田辺の映像が流れる。
田辺さん、「金出さない、手も出さないなら、一切口も出さない。これが介護のルール鉄則でございます」
(会場、笑い)
自宅のベッドで義父を介護している田辺さんの映像が流れる。
田辺さん、「おじいちゃん。お水、飲むよ」
現在、夫の父を在宅で介護中の鶴瑛さん。苦労を笑いに変える介護について、講談とともにお話を伺います。
石井 田辺さんは実のお母さま、そして夫のお母さまを介護した経験をお持ちで、現在は夫のお父さまを在宅で介護されていらっしゃいます。その経験を全国各地で"介護講談"を全国各地で披露していらっしゃるということですが、講談というと歴史上のイメージが強いのですが、なぜ介護を講談しようと思われたのですか。
田辺 義母が亡くなったとき、田辺一鶴と出会いまして、前座修業をし、二つ目になった時、池袋の男女平等推進センターエポック10というのがありまして、そこの副館長さんに「あなたの体験を講談にしてください」と、仕事を依頼されたのが介護だったのです。
山梨県甲府市。この日は介護用品を扱う会社が主催した講演会。介護している人たちも招待されました。
田辺さん、「私は自分の親を介護しました。今長男の嫁です。介護しますということでおばあちゃんの介護をすることになりました。私は介護の仕事が本当に好きだったら、きっと、介護職とか看護婦さんになっていたと思うんですが、あんまり好きじゃないけど。なぜやったかというと、良い嫁にみられたい。車イスに義母を乗せて散歩する嫁。美しいでしょ。いいお嫁さんでしょ。だから世間の人が誉めてくれるんじゃないかと思ってたんですが、誰も誉めてくれない
講演会場で介護講談をしている田辺の映像が同時に流れる。
石井 義父さんは、今どんなお方なんですか。
田辺 認知症の寝たきりなので、歩ける認知症は目が離せないですが、目を離しても、どこにも行かないので楽です。
講演会場で。
田辺さん、「認知症なので、夜中に助けてくれ、助けてくれ〜。どうしたの。水を飲ませると、またグーと寝る、また30分経つと、助けてくれ〜。もう朝まで寝たんだか、寝てないんだか分からない。翌日、なんだか頭の中が壊れたレコードのようになっていまして。こりゃあマズいなと思ったので、どうしたかというと、耳栓を買ってきたんです。でも聞こえるんです。すぐに行かないでいると、なぜ来ないんだバカ。バカと言われてカッとなった私は、バカに介護されるあんたは何なんだ。大バカだあ。これはいいなあ。私は気が強いから。気の弱いというか、やさしい人はグッと我慢してしまって、うつになってしまうから。ぜひ、相手にお返ししましょう。バカと言われたら、バカと言うのがいいですね。長く続く介護の場合、ええ格好しても続かないので、泣き叫びながらやったらいいんじゃないですか」
石井 自分の経験を本当に赤裸々に、本音(ほんね)で語っていらっしゃいますね。
田辺 さらけ出してやるので、お客さんもすっきりするのと、こんなバカにでも出来んじゃないかと、ホッとするんじゃないですか。
石井 介護を在宅で、というのはどうしてですか?
田辺 実母も義母も病院で看取ったんですね。病院というところは先生が立派な方で一生懸命やってくれるんですが、本人はちっとも嬉しそうじゃない。なんか痛々しい。それだったら畳の上で看取ったら、人間らしく死ねるんじゃないか。ちょうど、おじいちゃんが実験材料になったのです。
石井 いろいろ、ご苦労もあることでしょうね。
田辺 最初は慣れないので、こっちも頑張りましてね。何やっているんだバカと。認知症の場合、同じことを何回も繰り返すんですね。家族にとって同じことを聞くというのは耐えられないんです。友だちの看護婦さんがこんなに頑張っていて、倒れたら誰が面倒見るのって。共存共栄するように、長続きするような介護をしないと。と言われてホッしました」
石井 3人の介護をなされて、心情とされることは何ですか?
田辺 嫌いなことは無理してやらない。私は料理が苦手で無理して作ったんですが、(おいしくないのに)おじいちゃんがおいしいよ。と言ってくれたんです。おじいちゃんは大人だなあと。
石井 頑張ると見返りを期待してしまいますものね。介護とはどういうものでしょうか。
田辺 最初は嫌いで、天敵だと思っていたおじいちゃんから、「ありがとう。あかみは天使だね」と言われて。おじいちゃんが私に老い方、死に方を教えてくれて。私も間のあたりにして、私自身死ぬのが恐くない。老いるのも恐くないと思えるようになりました。
じじぃの感想
「私自身死ぬのが恐くない。老いるのも恐くないと思えるようになりました」
老いるのも、死ぬのも自然なことなんだ。