藤田嗣治「秋田の行事」と平野政吉美術館は一体の文化遺産

 1937年(昭和12年)、秋田の平野政吉の米蔵藤田嗣治が描いた大壁画「秋田の行事」。この大壁画は平野政吉と藤田嗣治が構想した美術館の壁を飾る壁画として制作された。平野政吉は美術館構想を実現するために、翌1938年(昭和13年)に美術館建設に着手したが、戦時中の鉄材使用制限により断念し、戦後は農地改革で多くの資産を失うなど自力での美術館建設が困難になったが、県の協力を得て、1967年(昭和42年)に、この「秋田の行事」を展示する美術館を完成させた。建設には平野政吉の私財(当時の金額で、5000万円)の他、県民の寄付金(同2000万円)、国庫補助金(同1500万円)も充てられている。建設着手以来、29年の歳月を費やしての完成であった。
 この美術館には、多くの藤田嗣治の助言が活かされている。「秋田の行事」の展示の仕方は藤田のアドバイスにより床から6尺(約1.8メートル)の位置に据えられ、両端が少しずつ迫り出して据えられている。また、館内の採光形式は、藤田が人生の最後に制作したフランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」と同じ自然光を採り入れた形式になっている。正倉院を模した高床式の造り、日本宮殿を思わせる屋根の形なども、藤田嗣治と平野政吉の構想が実現されたものである。
 現秋田県立美術館(平野政吉美術館)は、レオナール・フジタ藤田嗣治)と関わりの強い美術館である。藤田と関わりの強い建築物は、他にフランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」、住居兼アトリエであったヴィリエ・ル・バークルの「メゾン・アトリエ・フジタ」があるが、日本では平野政吉美術館だけだろう。また、この平野政吉美術館には、「眠れる女」(1931年)、「北平の力士」(1935年)、「カーニバルの後」(1932年)、「五人女」(1935年)、「自画像」(1936年)、「町芸人」(1932年)などの大作や「魅せられたる河」(銅版・彩色 1951年)など102点もの藤田作品や平野政吉が藤田から譲り受けた貴重な資料なども収蔵されている。
 大壁画「秋田の行事」、平野政吉が命を懸け収集した藤田嗣治の作品は平野政吉美術館と一体であり、貴重な文化財として、後世に伝えていくことが、今に生きる私たちに課せられた義務である。


(当ブログ著者からのお知らせ) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館で確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られております。藤田嗣治の助言通り、丸窓からの自然光の採光形式にすべきと考えます。



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