誰もが、ネギの幸福を願っている

人様の考察だけれども、面白かったので反応させてもらうおう。私が「ネギま!」よりの人間であり、「ネギま!」への肩入れ文になっているのは、ご容赦願いたい。

http://d.hatena.ne.jp/tanabeebanat/20080427#1209268198
ネギま!」と「ハヤテ」の作品の質を、主人公の親の、設定の相違から考察したもの。
これに関する事は、「ネギま!」に関して以前から考えていたのだけれども、「ハヤテ」と比較する視点が面白い。

ネギま!』は消費されることを前提とし、消費しようとしてもしきれないくらいの大量な情報を背後に潜ませています。それに対して『ハヤテ』は情報過多のように見せかけて、消費しようにも消費する対象が常に変化をしてしまうために消費しようがないという状況が作り出されているように思えます。

これは、物語の本質を捉える重要な視点だ。これをもう少し言い方を変えると、「ネギま!」は「物語的な物語」であり、「ハヤテ」は「現実的な物語」と言える。
「ハヤテ」の様な荒唐無稽な設定がバンバン出る物語が現実的、というのも変に感じるかもしれないが、ここで取り上げている物語の核としては、実は現実的なのだと思う。つまり、この作品の設定の核、「両親の借金」=「子供の面倒を見ない親」は、個人主義が横行し個人の快楽を先行して子育てを蔑ろにしがちな現代社会への風刺から来ている。現代の子供が傷つくのは、自分の親にそんな個人主義的なものを見てしまった時。だから「ハヤテ」読者は、自分より酷い境遇の主人公に対して感情移入し、そんな現代社会にすむ自分を笑い飛ばそうとしているところがあるだろう。
対して「ネギま!」は、そのような現代風刺的要素は薄い。正に作り上げられた物語と言える。それは、即物的な刺激を求める者からすると、一見「ぬるい」ように感じる事もあるかもしれないが、実際にはそんなことは無い。物語的=神話的とも言える。ネギの父親を探すという目的、そしてその過程で明かされていく彼の、さらに一部のクラスメイト達の生い立ちは、正に神話的だ。これは、人の心の中にある「感情」を、その源泉に近い部分で動かす事の出来る要素と言えるだろう。
ネギま!」と「ハヤテ」、この二つの物語を読んで心に残る物は、実はまったく違うものになるかもしれない。
そして、この考察の趣旨「なぜ「ネギま!」は考察されるのか」なのだが、もう少し理由を重ねられると思う。
早い話「ハヤテ」では、主人公ハヤテの幸福は必ずしも約束されていない。両親が最悪だという彼の不幸は明らかな事実だし、彼の物語はそこを基点に始まっているので、無茶な展開をしないかきりこの不幸を変えることは出来ない。無茶な展開とは、物語的で無い決着と言える。これでは、物語を読み込んで考察しようにも、そのし甲斐が無いだろう。
対して「ネギま!」の主人公ネギは、最初は明らかにされていなかったが、これも相当に不幸だ。両親の生死は不明だし、彼自身強烈なトラウマを抱えている。
しかし、実はそのネギの不幸は、「解消されるべき不幸」として設定されている。なぜこう明言できるかというと、それはやはり「ネギま!」が「神話的な物語」であり、ネギもそのように設定された存在だからだ。それは全ての登場人物に対しても同じで、元々不幸だったキャラも、既に少しずつではあるが幸福を取り戻している。
ネギま!」ファンが「ネギま!」をより深く読もうとするのは、「ネギま!」を読み解く事でその登場人物達の幸福を「必ず」見つけることが出来るという事に、感覚として気付いているからだろう。
私は、「ネギま!」という物語をそんな「幸福の詰まったびっくり箱」のように感じている。そして、その中身をひっくり返し、益体も無い何かを見つけてはブログに記し、楽しんでいる。
追記
改めてこの文を読んでみると、まるで「ハヤテ」を嫌っているように感じるかもしれないと、少しドキドキ。全然そんな事は無く、物語の質が違うというだけ。好きな作品です。