elements LAST LIVE 〜君に咲く二つの花〜 CLUB SEATA

二部共に参加。解散ライブという事もあり押さえておきたい所。
elementsに関しては、結成当初に出遅れてしまい、その活動内容を見ることができたのは結局終盤に差し掛かっていた頃だったという事になる。そういう事もあって、elementsそのものに対する思い入れは若干微妙。二人の事は好きだけれども、その活動には幾つか言いたい事がある。
声優という存在は難しい。俳優よりも演じる部分が限定され(声だけ)、顔出しが最優先のアイドルとも違うので、その人気がどこにあるのか、その判別が困難だ。きっと、人それぞれなのだと思う。声優アイドルと呼ばれて一定の地位を築いた人は、結構長い時間の地道な努力が認められてこそだったりする。そうではない、ひと時の盛り上がりを見せた声優は、どこに人を惹きつける魅力があるのか。それは、まずは演じたキャラの魅力、その上での「中の人」魅力となるだろう。つまり、声優の人気は作品キャラに委託されている部分が多いのだ。
elementsの結成当時、狩野茉莉についてはネギまの声優活動が終了してしまった事もあり、その活動の場として注目された。下田麻美に関しては、アイマスがこれからどこまで大きくなるのか、中の人の活動についても正に注目の絶頂にあった。思うに、彼女達の魅力はその二つの巨大コンテンツに大きく拠っていたのではないだろうか。もちろん、彼女達自身の魅力もあるが、それを上回る期待が彼女達にはかかっいた様に思う。声優とは演じたキャラの依童としての責務を負っている。それは、大きな人気であればあるほど、反動すらあったかもしれない。
滑り出しでは、その流れを上手く掴んでいたかもしれない。けれども、彼女達は「自分達の魅力」に拘ったのだろうか。ライブのセットリストは二つのコンテンツを顧みることの無い、アニソンカバーや懐メロに終始していた。「アイマスやボカロの下田とネギまの狩野がライブをやるよ」という事だけで、それらのコンテンツが好きなファンは沸き立つだろう。しかし、そのような期待を、彼女達は受け止めることはなかったのだ。何か、コンテンツ的な制約とかでもあったのだろうか?
下田の真面目さも、狩野のキャラクター性も実に好ましいものだ。才能も有る。しかし、彼女達は自分達がどういう立ち位置に居るのか、それが分かっていなかったのではないだろうか。自分の持っている力を使うことなく、逆に、後からじっとりと来る失望を感じさせた。今回の解散は、単に二人の他の活動による避け得ないものなのかもしれない。けれども、そこに到るまでの中で、この二人ならばもっと大きな仕事が出来たはずだ。elementsという魅力的な二人がひと時伝説的な活動をした・・・という事を、本来ならばもっと強い意味を込めて伝えられたのでは無いだろか。
今回のライブとしては、とても盛り上がっていた。アニソンカバーを中心にその中にオリジナルソングを散りばめ、ライブとしてとてもこなれた内容だった。
そしてラストソング。二人の選んだ曲は「輝く君へ」だった。それを聞いたとき、逆に「ああ、この二人は本当に分かってなかったんだな」と思った。なぜ今になってネギまソング。使いたくても自分達を律する為に堪えていたのでは無く、単に、使おうという発想が無かったという事になる。大麻帆良祭の再現の様なエピローグをネギまファンとして感動すると共に、二人に対して残念という思いも感じざるを得なかった。

「ドラえもん のび太の人魚大海戦」初日舞台あいさつ TOHOシネマズ日劇2

時間と場所的に都合がよかったので、つい参加してしまったよ。すみません。(何故か謝る)
最近のドラの舞台挨拶とかって、どうでもいい芸能人ばかりで興ざめだったのだけれども、今回は田中理恵飯塚雅弓がゲスト。ありがたい。実際、このくらい堅いキャスティングはして欲しいもの。それに、映画か30周年、ドラえもんキャストの面々を見られる機会でもあり、つい食指が動いた。
思うのだけれども、やはりキャストの人柄ってキャラに反映する事があるのかもしれない。どうも最近、ジャイアンが「きれいw」すぎて、スネ夫のキャラの方か立ってきている気がする。それも、中の人の雰囲気が乗り移っているのだろう。実際、他の三人も少しずつ変化してきている。作品は生ものだし、そういった事もあるのだろう。それが受け入れられていけば、それはそれでよいのかも知れない。
アニメの内容については、結構「残念」な感じだった。もちろんキッズ向けなので、そういう視点で見たのだが。
考えてみれば、藤子・F・不二雄が絡まない劇場版はあまり見ていない気がするので、どの程度の完成度を求めればよいのか分らないのだけれども、この映画は、藤子の持っていた「科学やSFの尊重」の部分が大きく損なわれている気がする。設定だけ並べて、ハラハラする事件を次々起し、お題目の自然賛歌で〆ればよい・・・的な作りだった。
のび太達は感情論的に二種族の戦争に参加していくのだけれども、実際の所、敵の種族は悪の権化としてとてもチープだし、味方した種族が本当に正しいのかすら分からない。知らない内に環境破壊がテーマに組み込まれているのだけれども、それは誰の責任で、誰が取り組むべき問題なのかを言っていない。実際には、それをテーマにしたい訳ではなく、話の盛り上げの演出程度で使っている。
何か大きな問題を取り上げた時には、その裏に責任と義務が生じるという現実を取り上げず、甘々に作っているのだろう。その事に気付いているのかすら分らないほどに。
子供向け娯楽ってこれでよいのかな、と疑問に感じる。子供が主人公なのだから、甘々な事が描かれる事はあってもよい。ただ、現実の問題を取り上げた以上は、その問題に取り組む現実の視点を組み込むべきだ。この映画は、「子供にお菓子を与える」としても、そこに保護者の視点が含まれていないようなもの。子供は、例えその場で大人の視点を理解できなくても、それが大切なものである事を敏感に感じ取り、心のどこかに残していく。そういう要素があったからこそ藤子・F・不二雄の作品は残ってきたのではないのかな。
単純に、この劇場版は海洋物としての佳作「のび太の海底鬼岩城」が既にある中で、それを押しのけて作られているような設定でもあり、そういった意味でも非常に残念。この様な作りをしていると、結局「ドラえもん藤子・F・不二雄のものだけ」という結論が出てしまう気がする。
大事な「種」は大切に育てていって欲しいものだ。

映画ドラえもん のび太の海底鬼岩城 [DVD]

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