午前のセッション

 今日は、朝のTable Group Leader Meetingがないので、少しゆっくりしてから、会場へ。ほとんど曜日の感覚がなくなってしまう。実は、今日は土曜日である。
 聖書講解はエペソ4:17−6:9という長い。アフリカのC. Odede。われわれはこの世界でキリスト者としてどのように生きるか。そして、われわれの人生においてどのようにしてこの世界との違いをあらわすのか。「歩く」ということばに焦点を当てて、語られた。4:17からは、異邦人のように歩かない、つまり生き方が問われている。新しい生き方を選び、聖霊を悲しませない、本物のキリスト者。信用されるキリスト者。単なる「ブブゼラ」のように音だけするのではない。イエスは、毎日、ご自身と共にわれわれが歩き続けることを願っておられる。5:1からは神の子どもたちとして神に似たものとなること。イエスの犠牲的な生き方を、人々が歩もうとはしない道を選ぶことが大切である。それは、人々の痛みを感じ、人々の人生に触れる生き方である。5:7−14では、光の下を歩くこと。光の下にさらしてはじめて、癒され、新しくつくられる。そして、あらゆる点において「透明」であること、そしていつも説明責任を負い続けること。東アフリカのリバイバルは、光の中を歩くこと、特に罪の時に光の中を歩むことから始まった。最後の5:15−6:9では、知恵あるものとして、悪しき日々に生きる事。機会は去っていくからこそ、この時を用いるべきである。そして、家族(広い意味での)のあいだにその関係が広がる。聖霊にある本当の生き方が、われらの家庭に広がるように。小さなことから注意するように。
 アフリカ的な説教。箇所は長いが、中心的なところはしっかりと押さえてていた。今回の会議で繰り返されていることであるが、福音にある生き方が、日々問われており、生き方が宣教と密接に結びついている。
 ちなみに、説教の前に各自で聖書を読み、考えるが、わたしの所属していたテーブルの様子は以下のよう。
 

 
 朝の基調講演は、キリスト者の誠実さについて。Christopher Wrightのメッセージは、ほとんど講解説教。今回の会議でのメッセージの背景には、宣教とキリスト者の倫理のあいだにある重要な関係についての彼の主張が流れている。
 神の宣教の最大の障壁は、神自身の民、それも彼らの偶像崇拝である。偶像崇拝は、まず、力と高慢を求める所にある。しかし、そこにあるべきは謙遜。次に、偶像は人気と成功を求める所にある。正直に報告しない、人々が聞きたいことを語る、その姿に現れている。そこにあるべきは誠実。最後に、富と貪欲。消費主義。神は必要を備える方である、しかし、このことが誤解されていく所におこる。本当に必要なのは、簡素。イエスはサタンに誘惑された。それはこの三つのポイントであった。われわれには、宗教改革が必要である。そして、本質的なところで主に立ち返る必要がある。宣教の為に出ていくためにわれらに必要なのは、主の下に立ち返ることである。
 F. Adeleyeが繁栄の福音(ジョエル・オースティンなど)について。物質主義に冒されているわれわれに忍び寄る。何か献げたら、それ以上のものを神から見返りとして求める。献金は、もはや、神への投資となる。そして、そのような福音は、決して、貧しい者たちへの福音ではない。では、繁栄の福音にどのように応えるのか。まず、繁栄の福音が「お金」に関するものであることを知ること。そして、貧しきものの立場に立つこと。そして、クリスチャンが「もの」を偶像化していることに気がついて、簡素な生き方へと戻ること。アフリカにおいて、繁栄の福音があまりに語られているため(もともとはアメリカでしょうが)、このことが大きく問題にされているのだろう。
 最後に、E. Wernerが男女のあいだの関係について。これまでのローザンヌ会議でのコンセンサスに則って、進むべきである。われわれには両者の賜物が必要である。そして、われわれは世界のすべての女性が必要である。このことを覚えて、進むべきである。神はわれわれをまねいておられる。戦うのをやめて、異なっているという賜物を大切にしようではないか。
 日本に生きていると、どれだけ自分が物質主義に冒されているか、分からなくなってくる。どれだけ成功と人気と力を求めているか、分からなくなっている。もう一度、謙遜と誠実と簡素(humility, integrity, and simplicity)の重要さを覚えたい。

午後のセッション

 分科会は「繁栄、貧困、福音」のセッションへ。アフリカの学者たちが発表し、導いていた。繁栄の福音は、貧困を悪魔のように取り扱い、貧しい者を隅に追いやる。貧困のアフリカの現実のなかで、それをごまかし、困難なしに、すぐに貧困から脱却を求める人々の心に働きかける。まさに、アフリカの極度の貧困の中に繁栄の福音が広がっていることが問題である。短い講義のあとの質問の中で、アフリカにおける繁栄の福音は、都市部ではサポートされているが、田舎では受け入れられない。説教をする者たちが、自分が利益を得るために(立派な家を建てる、ベンツに乗る、など)説教をするようになると、繁栄の福音の危険がある。そして、これから必要なのは、「労働の神学」である。
 アフリカの学者たちの神学的思索の深さを思わされた。そして、福音派に本当に必要なのは、神学的倫理であることが、明確になってきている。今、この時代に、どのように生きるのか。天国に行くことだけを考えている、そんな神学から脱却し、キリスト者として如何に生きるか、もっと聖書から教えられる必要がある。ちなみに、印象深かった神学者のひとりはこんな感じの人。
 

 
 続いて、神学教育に関するグループへ。神学教育がグローバルであるか、どうか、についての提案。まず、聖書によってグローバルであることはサポートされている。次に、グローバルへと進み、平等になる可能性がある。まだ平等ではないが、様々なリソースをひろげ、互いに分かち合うことを通して、このことがなされる。最後に、グローバルな神学教育はグローバルな教会という共同体にエネルギーを与える。単にグローバルに存在するだけではなく、そこにグローバルな実質を与えるものが神学教育である。受け取り、与えることによって実質が生まれてくる。神学校は教会の宣教の為に仕え、神学教育の協力団体は神学校で教える人を訓練するために仕える。
 ここで話されていたことの一つに、教科書の問題、特に自国語での教科書の問題が出ていた。それとともに、文化を注視し、生まれてきている神学をよりグローバルで分かち合う必要もある。西からではなく、むしろ南と東が協力し合う方向がもっと生み出されればいいのに、と思う。

夜のセッション

 夜のセッションは西欧とユーラシア(旧ソビエト)にまず焦点が当てられる。アルファの活動をしているN. Gumble氏によって、福音のすばらしさが語られた後、ユーラシアの福音派の教会の二人の指導者が話す。1989年、マニラでの集会の時には、まだすべてがソビエト連邦であった。そのあと、ソ連の崩壊に伴い、自由が与えられたのとともに、迫害のある地域も生まれた。かつて、シベリアは流刑の地であったが、いまは宣教地である(おなじテーブルの方から聞いたことは、モスクワも宣教地、もともとの住民は14パーセントに過ぎない)。とはいえ、ロシアはまだソ連の傷からの回復の途上にある。現在抱えている問題からの新しいチャレンジもある。しかし、新しい世代が誕生し、新しい、若いリーダーが生まれてきている。その事に希望を持ちつつ進んでいる。
 そのあと、讃美と祈りの時。自分、家族、自国の教会、自国、地域、世界の罪をそれぞれが覚え、テーブルで祈り、ひざまずき、悔い改め、ゆるしをいただき、讃美しつつ、前に進む。
 今晩の集会は、これまでとはことなり、小編成のオーケストラによる讃美。編曲、ちょっと派手すぎ。