Swan song (80)


 今年もお盆は海外出張に飛ばされてなくなりそう。週末にクーラー利かせた部屋に閉じこもって一気にやり体がガタガタになってしまったが、それでもそんな時間を何とか見つけることができてよかった。
 読書(プレイ)体験としては、高校生のころ読み漁っていたトルストイドストエフスキーの小説をまた思い出して懐かしかった。あれは一番幸せな読書をしていた時期で、もう同じものを再現することはできず、今回も懐かしさを感じること自体に内容の切実さに対するある種の裏切りがある。それは仕方のないこと。瀬戸口さんはエロゲーライターをやめてしまい、僕は高校生のころには持っていたはずのいろいろな選択肢を潰して、いろいろなものをなくしたり得たりまたなくしたりして、今はこんなところにいる。変わらずに残るのはこの作品という事実だけ。妙子の子供のときの幸福な読書体験は、それを取り巻く幸福ではない生活のほの暗い記憶の中で静かに輝く。司と柚香の子供時代の記憶もなんだか脳汁が出そうな感覚になる。そもそもピアノだけを相手に世界を閉ざし、内にこもり、やがてその小さな世界も壊され、それでもまだピアノをやめられずにもがきながらも、無機物か何かになってしまったかのように凝り固まってしまった司。ピアノから体の障碍から無表情から、あまりにも身近すぎて何かのいたずらかとも思える。鍬形が望んだような精密な世界は無理で、それを精密に整備しようとするなら、あろえの石遊び程度の規模でやらなければならない。世界はいろんなタイプのシステムがめちゃくちゃに絡まりあってできている。柿崎や柚香にとって灯台の明かりとなりえた司のピアノも、すぐに波間に消えてしまうようなものなのだ。それは仕方のないことだ。CARNIVALに引き続き、子供時代の重みをまたフィクションに教えられてしまった。
 カタストロフ物。人によってAKIRAだったり蝿の王だったり阪神大震災だったりいろいろなのだろうけど、僕の場合は雪のロシア革命、雪のナポレオン侵攻ということで、戦争と平和やらドクトル・ジヴァゴやらいろんな回想記やら。暖を取るために体中に馬糞を貼り付ける乞食たちや、貴族を梅毒で全滅させてやると息巻く売春婦たち。壊されて元に戻らない日常。やがてみんなが人のものを盗みながら生活することに疲れてくる。でもそれは外国のお話。この歴史を背負っているのはロシアの人たちであって僕ではない。僕には何もないから、登場人物がロシア人のようにしゃべる日本のフィクションを読めばいいわけで。結局地震の真相はよくわからない(最後に妙子が何かわかったのかな?)。救援は待てども来ず、雪はある日突然晴れる、という神の機械。音楽詳しくないのでわからないけど、章立てはイタリアのオペラか何かに沿っているのだろうか。だとしたらこの作品は自覚的な虚構として演出されたもので、2周目の全体がエピローグのようなものかもしれない。2周目のほうがご都合主義的にとってつけた手抜きという人もいるかもしれないが、むしろこっちがリアルな終わり方で、1周目は虚構としての実験のようなものだろう。極限状態で人は本能を抑えられなくなるというのは一種の定型句で(信じたくないというのもあるが)、実際は作者が登場人物にいろんなことを言わせるために仕組んだ仕掛けだろう。だって普通に暮らしていたらあんなふうにしゃべりたくてもしゃべれない。1周目のほうに面白さを感じるのだとしたら、それは現実のほうが狂っているからだろう。地震でも起きて壊してしまう必要があるくらいに。
 柚香は仮面をかぶりたくてかぶっているわけじゃない。その場ではベストのことを考えて言ったつもりでも、あとから振り返るとずるくて醜いことだった。いつも言った瞬間から言いたかったこととの落差を感じてしまい、自分の言葉を信じられず、そのことに対して諦念を抱いている。その醜さが外に向かうのが鍬形であり、内に向かうのが柚香。司や田能村のようにコミュニケーションの文脈の中で適切な言葉を選んで使うことができない。初エッチの後や1周目の最後では言葉に臆病だから言葉に裏切られ、だからこそもう、言葉の「余白」の部分で会話できているという希望をもつしかない。それは信じるか信じないかの上に成り立つような脆弱なものなのだろうが、そんなものが大切なのだ。2周目では雪に埋もれた死体たちの話を恐る恐る持ち出す。もうそれでいい。司に言葉が届いたとしても自分の望むような形ではないかもしれないけど、もうそこに賭けることに決めたのだろう。そのために生き残ったんだろう。
 さっきもいったけどこれは虚構であり思考実験みたいなものだ。僕には必要なものだった。登場人物たちのそれぞれに、今の自分の価値観を作ってきたいろいろなものの、ありえた別の可能性を少しずつ見た気がする。だから描き出される世界があまり明るくないとしてもそれはもうほとんど論理的帰結みたいなもので、それを嫌味のない文章で書き切ってくれたことがありがたい。