何もかもキミが悪いのだ


 
 
 ダメちゃん、みんなキミが悪いんだぞ。
 よくも私の眼鏡を壊してくれたな。
 
 
 壊した、というのは言い過ぎかもしれない。
 曲がったのである。
 先日、職場で、同僚に心配そうに声をかけられた。
「猫山さん、左目、どうしたの?」
「え?」
「左目だけ腫れてるよ。」
「ええっ!ホント!?」
 本人は、別に痛いともかゆいとも、全く自覚症状がなかったので、心底、びっくりした。
 で、何故だろう?と思いを巡らしていると、相手も同時に気が付いたらしく、
「あ、眼鏡…。」
 そう。
 目が腫れているのではなく、眼鏡の角度がおかしいので、左目だけ小さく見えていたのである。
 私はド近眼で、眼鏡の度が強いため、目から眼鏡までの距離が遠いほど、目が小さく見える。つまり、目から眼鏡までの距離が、左右で違っていたのである。
「そうなんだ。今、眼鏡が曲がっててさ…。」
 
 
 冒頭の写真では、分からないと思うので、A5判のパンフレットの上に置いて撮影したのが、以下の写真である。
 
 

 
 
 右側のつるが開いているのが分かると思う。
 これを無理矢理かけると、どうなるかというと、
 
 

 
 
 メガネのレンズが、ナナメってしまうのである。
 なお、この写真は、後述の理由で左のつるも少し開いてしまってから撮っているので、同僚に心配された時点では、おそらく、もっと角度はきつかった。
 
 
「何でそんなになっちゃったの?」
「それはね——。」
 私は、数日前の夜に思いを馳せる。
「みんなダメちゃんが悪いんですっ。」
 
 
 一週間ほど前のことである。
 猫どもに夕食を食べさせ、自分も食事し、洗い物を終えてふと見ると、ダメちゃんがキッチンマットの上でくつろいでいた。
 腹をぴたっとマットにつけて、長い背中を長いままに、惜しげなくさらしている。
 下の写真は別の日に別の場面で撮ったものだが、姿勢としては、こんなカッコで首を前に向けていた、と、想像してほしい。
 想像しましたか?
 コレが足許にいて、いかにも気持ち良さそうにしているのである。
 ——で。
 そそられませんでしたか?
 私はそそられた。そして、まんまと罠にはまった。
 
 

 
 
 私は彼の体に腕を回した。最初は座っていたのだが、体勢的に落ち着かないので、脚を伸ばして床の上に腹ばいになった。
 前にも書いたことがあるかもしれないが、彼の首から尻までの長さは、私の肩から臍までの長さとほぼ同じである。背中に腕を回して頬を寄せると、私の体側に彼の胴体が密着し、これ以上ないほどシアワセな体勢になった。
(うふふ。恋人同士みたい。)
 彼も喜んでくれたのだろうか。彼の咽頭からゴロゴロ音が流れ出し、同時に、何か得体の知れない気持ちよさが、次第に私を支配し始めた。
 そして——。
 気が付いたときには、私の額は、まっすぐに床の上に落ちていた。
 時すでに遅し。
 いくら中身が大して入っていないといっても、さすがに人間の頭である。プラスチック製の眼鏡には、その重さを支えるだけの強度はなかった。
 
 
「猫は、アルファ波を出すのよ。」
 友人さくらは言う。
 ちなみに、ウィキで「アルファ波」の項目を読んでみると、「耳から入った音楽に同調して脳波にアルファ波が出現する,というような宣伝文句は科学的根拠を欠く。」とある。
 だが、音楽には科学的根拠がなくても、猫には臨床的な根拠があると、私は確信する。やつらは、絶対、何かを出しているのだ。
 一時期、「人をダメにするソファ」というのが話題になったが、猫という連中は、間違いなく、人間を駄目にするパワーを持っているに違いない。しかも、おそらくそれは、確信犯だ。その証拠に、駄目になった人間が意識を取り戻した時、たいてい、やつらはすでに場所を移動しているか、自分は明晰で、駄目になった人間に冷やかな視線を注いでいるのである。
 
 
 なので。
 今日は外出のついでに眼鏡を直しに行くつもりであったのだが——。
 
 
 結局、行かなかった。
 急遽、別のトコロに行ってしまったからである。
 昼頃に所用があり人と会ったのだが、そのときの何気ないお喋りの中で、相手方から、渋谷の文化村で開催中の「ポルディ・ペッツォーリ美術館展」が、25日で終了だと指摘された。
 すっかり油断しきっていた私は、それを聞いて慌てた。
「平日にお休みを取って行くしかないんじゃない?平日の方がきっと空いているわよ。」
 彼女は笑ってそう言ったが、私はしばらく考えてみて、やっぱり来週は休みたくないと判断した。
 で。
 いったんは帰りかけたのだが、やはり思い直して、今日行くことにしたのである。
 
 
 と、そこまでは良かったのだが——。
 
 
 いやはや、スリリングな外出でしたよ。
 美術展が?いやいや、外出そのものが。
 ありていに言えば、お金がなかったのだ。
 何しろ、急な予定変更で、帰ってから家で昼食を食べるつもりだったので、まずは腹ごしらえ。途中でエキナカの「BECK’S」に入ってサンドウィッチのセット620円を注文した。
 支払いの時に、財布から千円札1枚と小銭を120円出し、500円のおつりをもらった。
 そのとき、千円札はあと1枚だな、と何気なく確認した。ついでに、小銭の方もほとんど使い切り、100円玉は一枚もなくなっていた。
 サンドウィッチを食べながら、つらつら考えた。
 美術館の入場料を払う時に、一万円札を崩そうかしら。
 そこで、はっと気が付いた。
 あれ?さっきお金払った時、一万円札を見なかったような気がするけど!?
 突然、不安になって財布を開けてみると、案の定。先日入れたものと思いこんでいた一万円札が入っていない。
 あら大変。お金を下ろさなきゃ。
 そこでまた、気付いた。
 あ、今日、キャッシュカード持ってない。
 ここに至って、事態は一気に緊迫化する。
 財布の中に、1500円は確実に入っている。美術展の入場料は1500円だから、ギリギリ足りる。
 が。
 そこで、別の事実に思い当たった。
 先程、地元駅で改札を通る時、パスモの残額が300円余りではなかったか。
 え、そんなに減ってたっけ?と思ったので、印象に残っていた。
 となると。
 帰りの電車賃がない!!
 あああ。
 じゃあ、諦めて帰るしかないのか。
 だけど、ここで帰ったら、何のために昼食代620円を払ったのだろう。家で食べればタダだったのに。(と、妙なところで貧乏性を発動する。)
 結局、一縷の望みをかけてパスモの残額確認をしたところ、千円以上残っていたので(地元駅で見た残額表示は、おそらく、直前に改札を通った人のものだったのであろうと思われる。)、何とか美術展には辿りついた。
 しかし、思い返してみても、多分、学生時代を含め、私の人生で初の体験だったと思う。所持金67円で渋谷の街を歩くというのは。
 
 

  
 
 その美術展の鑑賞中。
 巨大なタペストリーの前で、私は戸惑っていた。
 一生懸命、見ているのに、図柄が今ひとつ分からないのだ。
 もちろん、色褪せてしまっているから、という理由はある。
 だが、それにしても。細かいところははっきりと見えていると思うのに、全体の図柄がピンとこない。
 おかしい。
 と、そこで気が付いた。
 これ、図柄がはっきりしていない訳じゃない。私の見え方がおかしいのだ。
 そう。眼鏡のせいだったのである。
 眼鏡を手で押さえて角度を調整しながら、もう一度見てみると。
 何と。
 クリアに構図が分かるではないか。
 曲がった眼鏡、恐るべし。
 その後、時に眼鏡を押さえながら絵画を見て歩いている私は、明らかに「変な人」だったに違いない。ついでにそのお陰で、無事だった左側のつるも、幾分、開いてしまったようだ。
 
 
 そんなこんなで美術展を見終わり、出口に向かうと、例によって、魅惑のミュージアムショップが山ほどグッズを並べて売っていた。
 私はミュージアムショップが好きだ。時には、美術展本体より楽しかったりする。何も買わないつもりで見て回るのだが、結局、クリアフォルダだの手ぬぐいだの、ちょっとした小物を買って帰ることが多い。
 が。
 今日は買おうにも、お金がない。
 でも、見たら絶対、何か欲しくなる。
 涙を飲んで、素通りした。
 
 
 直後、その反動が出た。
 会場を出たところに、本屋があったのだ。
 と、いうわけで。
 
 

 
 
 また買っちゃったよ、猫本。
 だって、お金はないけど、図書カードは持ってたんだもん。
 
 
 後から考えるに、これは完全な衝動買いである。普段は、きりがないからと、この手の本は買わないようにしているのだ。 
 何故、こんなことになってしまったんだろう。
 何だって、イタリア美術を観に行ったのに、日本画の本を買って帰らなければならないのか。
 
 
 それもこれも、みんなダメちゃんが悪いのだ。
 
 

 確かに。お金を持っていなかったことは、実はダメちゃんとは関係ない。
  
 
 ちなみに、私のお気に入りはこの一枚。月岡芳年の「風俗三十二相」という美人画シリーズに収められている浮世絵である。
 本のページをそのまま掲載するのは、著作権にひっかかりそうな気がしたので、国立国会図書館のウェブサイトから画像をお借りした。
 
 

 
 
 一見したところでは分かりにくいが、おそらく、床に正座したお嬢さんが、前のめりになって、膝の前にいる白猫に頬ずりをしている図である。赤い手絡、桜の簪。解説には「裕福な商家の娘であろうか」とある。
 頬ずりされている猫のビミョーな表情とともに、タイトルが秀逸である。
 
 
「うるささう」
 
 
と、いうのだ。 
 
 
 私は確信する。眼鏡こそないものの、このお嬢さんは、始終、寝落ちにより髷を潰して、日ごと夜ごと、髪結いを呼びつけていたに違いない。
 
 
 


 あたしゃ、怪獣か。