暴力というテーマで観る「アヒルの子」×「家族ケチャップ」

落語に「二階ぞめき」っていう噺があってスゴく好きなんですよ。「吉原をただ見物するだけ」ってのが好きな若旦那が、自分の店の二階に吉原をそのまま作ってしまうっていう、ある意味SFモノ。ボクのブログのタイトルもそこからつけたんですけどね。世の中の見世物を見物してまわろうっていう意味からつけたんだけど、まさか自分が表舞台に立つとは思いませんでしたよ!


2/28に渋谷のアップリンクファクトリーで「アヒルの子」×「家族ケチャップ」という二本のドキュメンタリー作品が上映されましてね。その上映後のトークショーの司会を小野さやか監督から直接オファーを受けましてやってきました。(小野さやか監督のブログ参照)素人のボクになんで?


この二本の映画、併映されるって事がまずスゴい話なんですよ。両方ともすげえ重いっていう。もちろんエンディングにはふわっとするような爽快感で終わるように作られてるから良いんですが、初見の人は間違いなくびっくりするであろう2本。そのトークショーの司会ってねえ...。とりあえず司会をやる上で意識したのはあんまり重い話なんでお客さんの緊張を解すよう「なるべくふざける」という事。これはまあ普段からやってるような事なんで良いんですよ。特に「アヒルの子」っていう映画は「観終わった後に主人公のサヤカさん=小野さやか監督がニコニコしながらお客さんの前で挨拶する。」ってところまでが一本の作品だと思ってますから。笑ってる監督を見るだけで観終わった後に救われたりするような映画なんですよ。それはまあ良いとして、実は今回のトークショーの裏テーマとして、「カメラを人に向ける覚悟」という話を観客の皆さんに監督からお話しして頂きたかったのです。


さてここで注意書き。
ここから先はどうしても「家族ケチャップ」のネタばれをせねばなるまい。
まず公開から18年も経っているという事と、DVDになっていないので殆どの人が観ていないという事。でもこの映画の内容に触れないと書きたい事が書けないのですいませんが触れますよ。でもここでネタばれしても観たくなると思うよ。そんな映画。
以下、ネタばれありつつ続きます。






「家族ケチャップ」は一言で言うと、「お母さんに頭からしょんべんをかける映画」です。


これ「比喩」でもなんでもなくて、主人公の男の子が自分のお母さんにガチで小便ぶっかけるんですよ。しかも仏壇の前で。
主人公のマキノ君は日本映画学校に通う21歳の青年。お父さんは事業に失敗するわ女を作ってどっか行っちゃうわで、なかなかの自由人。お母さんはお母さんでマキノ君を連れて夜逃げをしたり、お父さんが残した連れ子に辛く当ったり、夜逃げ先に男を連れ込んだりと、またそれはそれで自由なお方。21歳になったマキノ君は同級生の友人(=今作品の監督である工藤義洋さん)と結託して、両親に今までのルサンチマンをブチまける反撃をする...。っていう内容。


「アヒルの子」と「家族ケチャップ」は「カメラは暴力装置である。」という事が端的にわかる傑作です。


「アヒルの子」の主人公サヤカさんも「家族ケチャップ」の主人公マキノ君も「被写体」となって家族と対決する。
その対決には主人公と家族の間に「カメラ」というものが存在します。誰だってカメラの前に己をさらけ出したくないんですよ、被写体の本音としては。しかし「カメラ」というものは残酷で、その困ってる表情や沈黙すら「記録」として残してしまいます。無意識に本音を引き出されてしまう恐怖。要は拳銃を突きつけられたような状態と一緒なんだよね。撮られる側としてはカメラの前に屈服させられる感覚。打つ手なし。


また、「カメラ」と共闘関係にある主人公たちは、「カメラ」がある事によって普段家族に言えなかった積年の恨みをぶつける事ができる訳ですよ。まさに「カメラ」の力を借りて、というやつ。じゃないと夜中に両親叩き起こしたり、母ちゃんにしょんべん掛けたりできないですよ。自分の普段の力以上のエネルギーを持つ事ができるっていう点も拳銃と近いものがあるんだよね。「ゆきゆきて神軍」や「神様の愛い奴」でお馴染みの奥崎謙三もその感じ。
こうやって撮る側にも撮られる側にも、ものすごい無意識に暴力のエネルギーが加わるからドキュメンタリーって面白くて、且つ怖いんだよね。「カメラに魂を吸い取られるよ!」っていう都市伝説もあながちウソでも無いと思っておりますよ。


で、「カメラ」という暴力装置でやっちゃった「暴力」っていうのは、撮影した時点で終わる訳じゃなくて「記録」と一緒に一生続いちゃう「業」にもなってしまうんじゃないかと思ったんですよ。2つの作品を並べてみた感想としては。

共通点の多い「アヒルの子」と「家族ケチャップ」の二本において、決定的に違うのは監督がカメラの前にいるか後ろにいるかなんだよね。ちょっとの違いなんだけど、「業」という点で考えると大変な差。

撮影から公開まで6年もかかってしまったとはいえ、「アヒルの子」に関してはまだ救いがあるんですよ。監督が主人公となって自分の家族を撮った話だから。監督がカメラを使ってふるった「暴力」の先ってのは自分の家族であって、それこそ監督と被写体(=家族)は一生付き合っていく関係。

ただ、「家族ケチャップ」に関しては、主人公と監督が違うんですよ。そこが一番大変なんですよ。



マキノ君が自分のお母さんに小便をかけるシーンを撮る監督。
マキノ君と共犯関係にある監督は、この決定的な瞬間を撮り逃さないように必死になる。
小便をかけられたお母さんは嗚咽し、うずくまりながらなにかをつぶやく。
そのつぶやきを撮り逃さないよう、うずくまっている泣いているお母さんの口元にスタッフがガンマイクを突っ込む。
実は「お母さんに小便をかける」という直接的な暴力よりも、この「うずくまって泣いているお母さんの口元にマイクを突っ込む」という画の方がはるかにショッキングで暴力的、そしてなにより一番「不快」な画なんだよね。
お母さんのつぶやきは「自分の息子がいかに大事か、50を超えた女が月に20万も稼ぐのがどれだけ大変か、そしてその稼ぎからどれだけ息子の為に仕送りをしているか」という魂の叫びだった。
いたたまれなくなったマキノ君は監督に懇願する。「ごめん、もう勘弁して!もう勘弁して!」



共犯関係の崩壊。監督からしてみりゃ、相棒の為にやっていた事なのに先に降りられた。

マキノ君は一生お母さんとつきあっていくだろうけど、「赤の他人が人に小便をかける瞬間」を撮ってしまった監督は、この時点でとんでもない「業」を背負っちゃったと思うよ。劇映画だろうがドキュメンタリーだろうが、時間がくればエンドロールが流れて終わるけど、人生ってのは映画が終わってからも続く。「これを撮った事は果たして良かった事なのだろうか?」という自問自答が監督自身に必ずあったはず。
もしかしたらだけど、「家族ケチャップ」の工藤監督は人の人生を自分のリングに上げてしまった事で「得るモノ」と同じくらい「失ったモノ」っていうのもあるのではないのかなあ...と。


ドキュメンタリーは、というか「人にカメラを向けて作品を作る」ってのは「人の人生に徹底的に付き合う」という事だからね。「アヒルの子」の小野さやか監督は、公開までに被写体である家族の説得に6年もかけた。人の人生を背負い込み過ぎたAVの代々木忠監督はうつ病になってしまった。「精神」を撮影した想田監督は今でも被写体となった方々と交流があるという。
では「家族ケチャップ」を撮った工藤監督は被写体となったマキノ君とその家族に対して今どう思っているのだろう。撮ってるときは勿論「覚悟」はあったのだと思うけど。18年経った今では?「カメラを人に向けるという覚悟」。たぶん傑作と呼ばれるドキュメンタリーってこの「覚悟」があるかないかなんだと思うよ。



で、小野さやか監督がサインと一緒にプログラムに書く言葉。


「死ぬか撮るか」


参りました!





※本文から漏れた内容

  • 「アヒルの子」は監督が涙とカメラで驀進するから表情とテンションがわかってまだ安心できるんだけど、「家族ケチャップ」の方は工藤監督の顔が一切見えないから余計不安になる。小野さやか監督は「怒りの持続が映画を完成させました。」トークショーでおっしゃってたが、工藤監督はどういったテンションでこの映画を完成させたんだろう?それを直接聴きたかった。
  • 「家族ケチャップ」はマキノ君がカメラの力を使って自分の力を増幅した挙句やたらチンコを出すんだけど、いくらチンコを出しても「もう勘弁して!」とスタッフに懇願する瞬間が一番彼の本心を映していたよ。見事だよ。
  • トークショーの司会をやってて小野監督との会話の中にぶち込みたくて入らなかった台詞:「ワラライフ!!っていう映画がありましてね...」
  • トークショーの司会をやってて完全にスベった台詞「(アヒルの子って)『キル・ビル』みたいっすね。」いや!ホントにそう思ってんだよ!
  • 【「家族ケチャップ」って18年も前の映画じゃないですか。で、この作品内でマキノ君のお姉さんにお子さんが産まれますよね。いまそのお子さんって18歳くらいになってると思うんですが...どうすか「家族ケチャップ2」?】って小野監督にオススメしたんだけど、ホントは工藤監督に言いたかった。
  • これでようやく何故「YOYOCHU」が面白くて「AKB48のドキュメンタリー」がダメだったのがわかったよ。監督と被写体の距離感だったんだね。「YOYOCHU」は被写体の代々木監督と作り手がぴったりと寄り添うようだった。「AKB48のドキュメンタリー」は、その距離感が全然縮まってなかったと思うよ。作り手はどうだったかわからないけど、少なくとも被写体であるAKB48のみんなは「いつもの仕事のうちの一つ」くらいでしか無かったように見えた。