虹はみえているか

一番最初に頭をよぎったのは、寸断という言葉だった。命、暮らし、時そのもの。
林の木の枝にひっかかったままの衣類がその象徴のようにみえて頭から離れない。
かの地で損なわれたものの総量を、想像することすらできない。

でも・・・と、歩くにつれて違う感情が私をとらえる。
完全に止まったわけではない。
或いは一旦は断ち切られたのかもしれない。
けれど、できるところから、できることから何かが始まっている。

がれきは徐々に撤去され、新しい電柱がたつ。
辛うじて2階が津波を免れた家や、高台の家、ところところで営みが始まっている。
たとえば、線路がだめになったところに代行バスが走るということ、
駅代わりのバス停の位置を決め、ダイヤを設定し、真新しい看板を立てる、
それは言葉にできるほんの一端のことにしかすぎないけれど、
そんな地道で丁寧な営みが、あちこちで生まれている。

そういう息吹みたいなもの、立ち上がる、再生への気配のようなものは確かにあり、
その力強さに対して抱いた気持ちは言葉にできない。
それは、よそ者であるところの私が能天気に描いた希望のようなものかもしれない。
けれど、どくどくとまだ流れ続けているのを感じる。
ひとの営みというのはなんと偉大でたくましいものなのだろう。

日和山公園にある鹿島御児神社で鎮魂と再生をお祈りし、
後ろを振り返ったら虹がみえた。
虹って吉兆だったっけ・・・と思いながらも、なんとなく明るい気持ちになった。
それは、私にとっては今も励みになる大事な風景のひとつだ。
これからも抱え続けるだろう。
被災地の人それぞれに、そのひとにとってのそういう明るい風景が、
象徴としての虹のようなものが見えますよう。