「女性は産む機械」発言

柳沢厚労相自民党島根県議を前におこなった講演の一部、「女性は産む機械」という発言が物議をかもしています。人間は機械じゃない、女は装置ではない。そう反発する気持ちはよく理解できます。柳沢さんの、厚生労働大臣という立場でのこの発言とそのときの態度は、たしかに不適切だったと思います。

ただし、人間にまとわりついている、人間自身が作り出したのだろう「人間の尊厳」とか「自尊心」みたいなものをいったん全部取り払って、唯物論的な場所に立ち、人間を無機質な機械として見おろしてみることには意味がある、と思います。
以前このブログでも書いたかもしれませんが(註:チェックしたら、2度も取り上げていました!)、アメリカの作家マーク=トウェインの晩年の作品に、『人間とは何か』という風変わりな評論があります。トウェインと柳沢さんを並列しようとしているのではありません。ただ、機械を擬人化した『機関車トーマス』などとは正反対の方向で人間を擬機械化している点に、共通点があるように見えるのです。

人間とは何か (岩波文庫)

人間とは何か (岩波文庫)

評論は、厭世主義者(?)の老人と青年の間の対話という形で進みます。老人はネチネチと「人間なんて、結局は機械と同じなんだよ」という持論を展開し、青年はこれに反発しながらも、次第に老人の考えに接近して行きます。読みようによっては、最初は夢も希望も救済もないように思えるかもしれませんが、視点を変えてみれば、真逆な受け止め方もできる、不思議な作品です。

きのう紹介した本の中にも出てきましたが、「翻訳する」ことを、英語では、たとえば、"he put the English novel into Japanese"などというふうに表現します。中学校でも教わる一般的な表現です。これは、直訳すれば、"彼は「英語」という器に入っていた「小説」という情報を、「日本語」という新しい器に移しかえました"、となります。このロマンチック(?)な感覚は、「言語A←→言語B」だけでなく、日常のコミュニケーションにも、そのまま生きていると思います。
「自分」という器に入っている、考えや意見や感情や願いなどといった情報は、残念ながら多くの場合は抽象的(伝えたい情報が石ころみたいに具体的で簡単なものも場合は、実際に石ころを拾い上げて、それを相手の前で指差してしめせばいいのですが、そんなケースは滅多にありません)で、具体的なかたちを持っていません。ですから、私たちは、それらを「言葉」という道具にいったん置き換えて、「相手」という別の器に移し変えようとします。
この作業を上手に行える人たちは、しばしば「巧言令色ナントカ」とか「やつは口が上手い」みたいな言い方で批判されますが、こと、歌手や文筆家や政治家らに限れば、彼ら彼女らはその作業のプロフェッショナルなのですから、うちにどのような情報を内蔵しているのかとは別に、または同時に、高度な「翻訳」能力(そのときの態度=body languageもふくめて)を持っていることが期待されると思います。この前提が正しいとすれば、柳沢伯夫という「人間」は、政治家という「機械」が備えているべき「機能」に欠けた欠陥品に、私には見えます。
もちろん、仮に彼が政治機としては欠陥品であったとしても、そのほかの機械、例えば、学者機や官僚機や漁師機などとしても同様に不能である、とは言い切れません。また、欠陥品自身に、自分が欠陥品であることに対する責任を負わせるのは不条理です。ですから、柳沢さんは、「私は政治機としては欠陥品なんです」とその事実を認め、「つきましては、私を政治機に据えてくださった方々のご期待にそえず残念ですが、これからは別の機械として働くことにします」と言えばいいんだと思います。再チャレンジの実践です。人間を機械に例えるということは、そういうことなんじゃないでしょうか。ね、トウェインさん? それとも、彼の言葉をうけとめる「受信機」のほうに問題があるのかな?