大連国際音楽倶楽部・大連日本人学校10周年記念に寄せて:2004年4月(その1)

大連国際音楽倶楽部・大連日本人学校10周年記念に寄せて
大連友の会 幹事/大連会 評議員/大連国際音楽倶楽部
水納 隆司


 1994年7月2日大連日本人学校の開校式が執り行われた。大連市付家庄の青い海原の傍に建つ学校の近くの施設に午前早くから大連市政府関係者や日系企業代表者が参集し、祝辞を述べるとともに、初代校長の渡辺浩校長が参列した父兄、生徒に心にこもるお話をされたのを今でもよく覚えている。あの時の生徒達の輝くような笑顔が忘れられない。
 私はこの年縁あって日本人学校の初代事務局長として理事会の運営にあたり、また渡辺校長や他の先生方の生活面を含めた全般についてスムースに現地に溶け込むよう微力ながら努力していた。理事会は伊藤忠大連支店長の古谷明氏が理事長で大変熱心に指揮を執り、理事の方々も初めての日本人学校を何とか維持、育てて行こうとする熱意に溢れ、学校と一体になって動いていた。日本人社会も当時の日系企業の積極進出を背景に、やっと出来た学校を暖かく応援しようという気運に満ちていたと思う。
 この大連日本人学校設立の経緯については既にいろいろと述べられているが、やはり従前の補習校時代から支えて来た市丸(山崎)節子元補習校校長、また直接設立申請に努力された元マブチモーター総経理の徳永研一氏や日清製油専務であられた世良明氏、さらに中心になって動いた元第一勧銀事務所長の湯川誼氏等の活躍無くしては難しかったと思われる。さてこの後95年に帰国した私は、今度は大連日本人学校友の会の事務局長として大連日本人学校を側面から支援するとともに、日本人学校に関与した日本人に方々の交流の機会を設けるべく代表の徳永氏と共に活動を続けていた。
 その中で94年に設立された日本人学校には校歌がなかった為、何とかしようということで校歌の作詞、作曲への道を模索することとなり、大連会の皆様の熱心なご協力もあって作詞をまず芥川賞作家で大連とも縁の深い、清岡卓行先生※1(「アカシヤの大連」の作者)に依頼、続いて作曲を日本の代表的作曲家であり、中国とも深いつながりを持つ故團伊玖磨先生※2にお願いすることになった。


 清岡先生の作詞の完成後、いよいよ團先生にお願いすることになり、1996年に入ってからのある日、徳永代表にお供して帝国ホテルで團先生にお会いすることができ、直接大連日本人学校の校歌作曲をお願いし、先生の快諾を得ることができた。大変うれしいご返事だった。
 ただそれからは、團先生が新国立劇場の設立記念オペラの作曲に入っていた為、予想より時間がかかり完成は翌年97年の1月過ぎとなった。仕事場にしていた八丈島で構想され横須賀で最終作曲されたものと推察される。(作曲日時 1997年1月28日 横須賀にて)
 作曲されたばかりの團先生直筆の楽譜を当時の東京三菱銀行の本店で頂いた私は、本当に感激し直ちに徳永代表に連絡、楽譜の写しを送ったが、受け取った徳永代表はすぐ声に出して歌われたとのことを後で知った。それほど皆の待ち焦がれた校歌の完成であった。その後、清岡先生が大連日本人学校を訪問した後、團先生も学校を訪問、生徒達の歌う校歌をじかにお聴きになったと聞いている。


 さて大連日本人学校の開校後、時は流れ今年で10周年を迎えることになった。現校長の山本校長によれば今年の10月16日(土)に開校10周年記念式典を予定されている由。既に大連友の会(現代表 武間和保氏)では昨年10月13日に会を代表して私と湯川氏が大連日本人学校を訪問し、早々では会ったが心ばかりのお祝い金を山本校長にお渡ししてきた。
 今回の周年行事の中で特筆されるのは、この行事の中で私がこの10年間待ち望んだ、大連日本人学校校歌を同じ1994年に設立された大連国際音楽倶楽部による伴奏で生徒たちが歌うという可能性がでてきたことである。山本校長からは、現地大連オケの代表で元コニカ総経理の関剛志氏あてに記念演奏会の挙行も含め既に打診が入っている。これが実現すれば、同じ年に誕生した二つの組織が奇しくも10年目に校歌を媒体にしてその軌跡を交差させることになる。(つづく)

2011年8月24日水納さん提供
※1 清岡卓行(きよおか・たかゆき、1922-2006)
※2 團伊玖磨(だん・いくま、1924-2001)


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