◆歯切れが悪いのは仕様です。
2012-04-03
2012-03-05
■[学問][専門家と素人]「専門家は〜してない(からイカン)」的な何かと想像力の話(あと言語学はなめられているか)
話の背景というか発端についてはばらこさんの以下のエントリをお読みください。
あとそれに続くエントリもおすすめ。
僕が付け加えられることはあまり無いのですけれど便乗して過去に書いたものの宣伝でもしてみようかなと思います。というかほとんど断片的な愚痴の集積です。
まず、言語研究者は文脈を考慮しないか
そんな適当な研究したらゼミ・研究会レベルで真っ先にツッコミが入ると思います。文法研究の論文とかで文脈との関連が取り上げられていなかったら、それは無視されているのではなく、検討した結果(それほど)関係無いので取り上げないということが多いでしょうね。「大きな問題なので改めて論じる(≒難しいので後回し・誰かやってくれないかな)」ってこともありますけど。
もちろんその検討が不十分だったら他の研究者からツッコミが入って、さらに研究が進んでいくわけですね。というか言語研究でそれまでの文法研究に対して文脈・語用論的条件・自然談話なんかを考慮すると別の研究の可能性が開けてくるってのは結構よく見かけるパターンのような気が…しかもごく最近の話でもないような。
ただ文脈に大きく左右される現象(の多く)は語用論や談話・文章研究と呼ばれる領域で取り扱われることも多いので「文法」というキーワードだけに注目していると見逃す可能性はあるかなあ…文法研究でも文脈との関連について踏み込んで言及されるのもよく見かけますけどね。また、言語研究の入門書レベルでもその辺りのことは言及されますよ。たとえば以下の書籍でも
- 作者: ジョージユール,今井邦彦,中島平三
- 出版社/メーカー: 大修館書店
- 発売日: 1987/12
- メディア: 単行本
- 購入: 4人 クリック: 24回
- この商品を含むブログを見る
20章のうち2章が文脈に(大きく)関わる言語現象を取り扱う領域の紹介に割かれています。ただ「言語学の入門書」と言っても網羅的でないものも結構あるので知らない人がちょっと探す範囲だと見かけないこともあるかな。
Wikipediaとか
まあ「研究ではそうかもしれないけどそれが社会に還元されていない」とか言われてしまうとそういう側面はあるかもしれません。それでも「あたかも「文脈は文法ではスルーする」ということが、言語学者たちにとって世界共通の文脈であるかのように」というのは言い過ぎだと感じますねえ。僕が言語学の関係者だからかな。専門の論文じゃなくてもちょっと大きめの書店やgoogle booksでチラ見する程度でもそんなこと言うのは躊躇する根拠になる情報ぐらいは見つけられそうなもんですが…
Wikipediaにある程度十分な情報があってほしいという気持ちはわかりますし、僕も積極的に編集に関わったりしているわけではないので偉そうなことは言えないんですけど、「語用論」の項目をのぞいてみたら
語用論は統語論などの研究者から見れば枝葉の研究と見なされがちである一方、実際の使用と切り離して文法や意味の理解に至ることはできないという立場をとる研究者もいる。
とか書いてあってやっぱりもうちょっと編集に関わったほうがいいかなとも思ったり。「見なされることもある」ぐらいの言い方ならそう言いたくなる気持ちもわからないでもないんですけどね…
専門家によるネガキャン
ややこしいのは、専門家自身が「〜学はこういう事実や観点に気づいていなくてダメ」みたいな言い方を一般書や入門書でしちゃうことがあるんですよね。もちろんその情報が事実だったら良いんですけど、そうじゃない上に書いてるのが「言語学者」って肩書きを持っていてしかもビッグネームだったりするから困ります。
僕は個人的にそういうのはまずいなと思っていて、ここでもたまに愚痴っています。
上記から少し引用。
Q4. 一般向けの本なのである程度の間違いは仕方ないのではないですか。
A4. 一般向けの本であるからこそ問題です。なぜなら、上に書いたような問題(研究史上における位置付け、学界における受容)は、実際に資料や文献を調べたことがある人、実際に学界に身を置いている人、つまり専門家でないと気付けないことだからです。たとえば論理のおかしさ、などであればいわゆる素人でも気付く余地がありますが、素人が気付くことの大変難しい事実について、しかも一般向けの本で間違った記述をすることは、専門家として大変問題であると思います。
「〜学には〜に関する研究が無い」ってのもここでの「気付くのが難しい」情報だと考えています。
言語学/言語研究って研究領域が色々ある上に各言語ごとに研究があるもんだから研究の量自体が膨大ですし、しかも「〜に関する研究がある」って言うのに比べて「〜に関する研究は無い」ってことを言い切るためには可能性のある範囲を全部調べている必要があるので、ほんとに言い切ることができる研究者はそんなに多くないと思います。僕だったらよっぽど自信のある研究テーマ以外では「見かけない」とかそういう慎重な言い方を選びますね。いや自分の専門でも言い切るのは怖いかなあ…論文とかだと「管見の限り」っていう必殺技がありますが。
余談ですが小飼弾氏は金谷氏の著作を結構好意的に紹介していたことがありまして、著作でも好意的に紹介したりしてと思うとちょっと暗い気分になっちゃいますね。asaokitanさんが最近ツイッターで僕のエントリを紹介してくれたようなのですが(ありがとうございます!)、僕程度の書いたものだとあまり影響無さそうです。
知らない分野に対する想像力
なんでこう長々としつこく書いているかというと、「自分の知らないところで支払われている多大な労力/コスト/人生がある」ことに対する想像力って大事だと思うのですよね。それが意義のあるものなのか「良いこと」につながるのかという辺りの評価は難しいこともあると思いますけど。以下長いですが過去の関連するエントリから引用しておきます。
科学を含んだ、学問という活動は基本的に蓄積の上に成り立っています。僕はこの活動において、「正しい方法で間違った人々(研究)」が重要な役割を果たしていると考えています。
一般書などでよく紹介されるのはやはり特に重要な研究を発表した人や、最初は間違っているとされながら、後にその正しさが認められた人だったりするのでなかなか認識されないのは仕方が無いと思うのですが、実際の研究の世界では無数のチャレンジがあり、多くの失敗…というか上手くいかなかった研究があるのです。後になって否定されるものもたくさんあります。
重要なのは、それらが結果としては上手くいかなかったとしても、きちんと学問の(+それぞれの分野の)方法に従っている、ということです。そういう研究があるからこそ、次の人は同じ失敗を避けたり、どこかを改めて再挑戦したりできるわけです。
これは学問に限らず当てはまるところもあるのではないでしょうか。学問に限らず専門領域に対するリスペクトが無い社会ってなんだか嫌な方向に行きそうな気がしています。
こういった重要性を知るために、学問に関しては卒論が意外と重要だなと思っていて以前こんなことを書きました。
世間一般に出回る新書や啓蒙書に書かれているようなことを導き出すまでに、専門の研究者がいかに地道な作業、考察を膨大に行っているかということに直接触れるのにはやっぱり卒論執筆というのが一つの良い機会なのかな、と。
もっと簡単に言ってしまうと、「この問題について”専門的に論じる”ためには最低これだけのものを読んで考えないといけないリスト」を目の前にして圧倒されるという経験が一度ぐらいあっていいのではないか
もちろん、卒論(や卒業研究)自体を体験する機会が無かった人たちにどう知ってもらうか、という問題はあります。
言語学はなめられている?
ばらこさんのエントリに着いているブコメには言語研究関係者のなげきがいくつか見られますね。
僕の感覚ではなめられているというよりは忘れられている、知られていないという感じですかね(それをなめられていると言うのかもしれない)。以前からちょこちょこ書いてるのですが、言語学(の考え方)を少しで良いので義務教育で導入しちゃうってのはどうですかね。異文化理解とか言語運用能力とかが重要って言うんだったら使える話がいっぱいありますよ。わりとマジです。
言語自体はなじみも興味もある話題なので耳目を集めやすいのに加えて、一部の、他分野への敬意が無く言語学もよく知らない何かの専門家/研究者とか、知識人と言えば良いのでしょうかよくわからない頭の良さそうな人たちとかが、自分の経験とか新書で得た知識とか三十年ぐらい前のしかも学部で習うレベルの言語学の内容とかだけをもとにてきとーなことを言うのがややこしいです。心の狭い僕はあまりスルーできません。しかもてきとーなことを言うだけならともかくなぜか「言語学」が「過去の研究を墨守するだけの頭のかたい象牙の塔の住人」みたいに槍玉にあげられたり…今後もここやブコメで愚痴り続けると思うのでこの辺にしておきます。
さて、最近掛け算の順序と言語の関係について少し書いたのですが、
その後次の本があることを教えてもらいました。
- 作者: 水谷静夫
- 出版社/メーカー: 森北出版
- 発売日: 2005/05/08
- メディア: 単行本
- 購入: 2人 クリック: 19回
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初版は1970年ですね。図書館で借りたのは第二版(1972)ですが、その前書きから引用して締めにしたいと思います。
わたくしは言語研究者の中では理屈で割り切るのが好きな方ですが、そんな人間から見ても他分野の人の言語(日本語や英語のような「自然言語」)の扱い方にだいぶ不満を覚えるのが普通です。例ならいくらでもあげられますし、特に「日本語の非論理性」についての論理的でない床屋政談などは概して腹立たしいほどですが、それだけになおさら、諸分野間の風通しをよくしなければなりません。その一つの試みとして、国語学者側からの発言がしてみたい―これが、わたくしが本書の執筆をお引き受けした動機の一つでした。
(水谷静夫『言語と数学』「はしがき」より)
一応、このブログは言語学/言語研究の営業・広報も兼ねているつもりで書いています(ちなみに今のところ営業妨害だからやめろという苦情はいただいておりません)。僕がやっていることと言ったらここで愚痴っているのがほとんどですが、これを読んで営業活動もがんばろうと勇気付けられたのでした。
2012-02-23
■[言葉]掛け算の順序と自然言語の対応についてちょっとだけ
はじめに
これもはてブなどで微妙に書く書く詐欺を働いてきた件なので少しだけ書いておきます。
この問題については以下のページが参考になります。ページタイトルを見るだけで何が問題にされているのかわかるのが良いですね。
幅広く議論と情報が蓄積されているので全部読むのは大変ですが、気になった方はまずこちらをじっくり読むのが良いのではないかと思います。
念のため、以下の議論はこの掛け算の順序問題の大勢には影響ないのではないかと今のところは考えています。言語と認識/思考の関係などについて興味のある方などお暇つぶしにどうぞ。このブログでは普通なのですが「ちょっとだけ」とか言ってるわりには結構長いです。あとまだまだ荒い議論なのであくまでも参考程度に。
問題は何か
僕が気になっているのは、次のような考え方です。
- (1) 掛け算の順序は対応する自然言語によって異なる(べきである/のが自然)
「考え方」と書いたのはこれが「主張」と言えるほど強いものなのかいまいちわからないことが多いからです。議論の途中で時々出てくるのですが、あまり突き詰めて議論されているのを見たことがありません。
さて、(1)だけではよくわからないと思いますので、典型的な具体例を挙げます。僕が使っている電子辞書の「ジーニアス英和大辞典」の名詞"time"の「〜倍」という語義の解説に分かりやすい例が載っていたのでそのまま引用します。
- (2) 「1個10セントのみかんを5個買った」場合、日本語では10×5と立式するが、英語では5×10と立式する(読み方は five times ten)
これを踏まえると、(1)の主張は詳しくは次のようになるのでしょうか。
- (3) 同じ状況について自然言語の表現で掛け算を表す場合、言語の種類によって数の順番に違いが出る。その違いが掛け算の式にも反映される(べきである/のが自然)
いや、この英語の"X times Y"の例を出しているのは結構見かけるんですけど、その例からどのような論理を経て「掛け算に順序がある」という主張につながるのかわからないことが多くて…わりとはっきりと主張している例としてたとえば以下の記事が挙げられますが、
なぜ自然言語上の違いを式にも反映させるべきかという論理そのものは詰められていないように思います。
一言語研究者としては、式に対応する自然言語上の表現はたくさんありそうだけどどの表現との対応を考えるのが良いのかちゃんと決められるんだろうか、とか、全ての自然言語が(上で見たような)英語式が好ましいか日本式が好ましいかに分けられるなんてことがあるんだろうか、とか色々疑問がわいてきて、前からもやもやしています。
このエントリでは言語の観点に絞って(1)や(3)のような主張をしたい場合は何について(も)考慮しなければいけないか、という点について書いておきます。
対応する言語表現は決められるのか
上にも書いたように英語の例としては"X times Y"がよく挙げられますね。"multiply X by Y"を上げる人は見たことがありません(追記:これまで僕が見た掛け算の順序に関する議論の中では)。考え方としてはやはり上で紹介したページで示されているものがわかりやすくて良いと思います。
かけ算の順番は,言語に依存する。日本語では「みかんを4個ずつ6人に」「みかんを6人に4個ずつ」のどちらでも言うことができるが,「4の6倍」と言うのはこれしか言い方がないので「4×6」と書く。日本においてはこれが正しい順番である。
英語では,「six times four」と言うので「6倍の4」の意味で「6×4」と書く
表現によっては「どちらの順番でも可能」とはっきり言及しているところが良いですね。日本語は比較的(特に項同士の)語順が自由*1なので、動詞文では順番が入れ替え可能になることも多いです*2。
これまで「1皿3個のりんごが5皿」のような表現を出している例も見かけましたが、これは上の例には当てはめるのが難しいですよね(「?1人4個のみかんが6人」)。これは「配る」のか「ある」のかといった状況によって、使える動詞(述語)と対応する構文が異なる場合があるためです。
そうすると、上の記事で言及されている「4の6倍」「?6倍の4」がどのような状況にも対応する表現として良い候補であるように見えます。しかし、確かに「6倍の4」という表現は奇妙に聞こえますが、たとえば「6つの4」という表現ではどうでしょうか。これもあまり使用されない表現でしょうが、僕の感覚だと「6倍の4」より結構ましに感じます*3。そうするとたとえ(1)や(3)の方針に従ったとしても、日本語話者でも英語式と同じように立式してよいという可能性が出てきますね。
こう言うと屁理屈というかいちゃもんに聞こえるでしょうか。しかしここでの問題は自然言語に依存した形で掛け算に順序を認めるとして、その際に基準となる言語表現がはっきりと決められるのかということです。他にも「XかけるY」という表現の可能性もありますかね。でも「XのY倍」と「XかけるY」ですらすでに文法的な構造は違います。
この決定は英語と日本語に限っても難しそうな気がします。以前どこかのブクマコメントにも書きましたが、僕の感覚では、掛け算の式のようなシンプルな形式に豊かな/複雑な自然言語の表現をきちんと対応させるのはかなり厳しいように思えてなりません。各言語で自分の説に都合の良い表現のみをad hocに選んでいくのならともかく。
あと(1)や(3)の主張は自然言語の表現が前提となって数式があるという感じなんですけど、数式というか立式のし方に合わせる形で自然言語の表現が統一されていった、みたいな可能性は無いんですかね。調べるの大変そうですけど…
ひと休み:英語の"times"について
この掛け算の表現に使われる英語の"times"ですが、辞書を引くと名詞の"time"のところにも該当項目がありますし、前置詞/動詞として独立したエントリーになっていたりもしてなかなかややこしいです。
そこでイギリス英語のネイティブに聞いてみたのですが、「1×1」の場合でも"one times one"と言うそうです。もしこの"time"が名詞であれば1の場合には単数形になりそうなので、前置詞の可能性が高いのかな。ただ、専門用語として"times"という形で固定化されているという可能性はありますし、実際インフォーマントからもそういう指摘がありました。動詞として使われる場合もあるのかもしれませんが、英語の文法を考えると、少なくとも"X times Y equals/makes/is ..."の環境では動詞という可能性は低そうです(面倒なので説明は略、ヒントは三人称単数と英語の関係節の特徴)。ただこれも専門用語というか専門の特殊な構文だという可能性はついてまわりますかねえ。
他の言語についても考えてるのかな
ここから先の話はさらにあまり関係無い話かもしれません。
最初の方で「全ての自然言語が英語式が好ましいか日本式が好ましいかに分けられるなんてことがあるんだろうか」と書きました。つまり、数式の上では「X×Y」か「Y×X」かという問題で、それが対応する自然言語の特徴によって一意に決まるとするならば、全ての言語とはいわなくても多くの言語が英語式か日本式に分類できることになります。数式と自然言語の対応は英語と日本語(+限られたいくつかの言語)でのみ成り立つという主張も考えられますがその場合にはある程度の根拠を示さないといけないでしょうね。
さてここで面白い論文を見つけました。
サピア=ウォーフの仮説にも言及されていますし、社会言語学や言語教育研究の観点から見ても興味深い報告が含まれていると思いますが、その辺りは割愛。(特に英語と第一言語による)バイリンガル教育に興味のある方は最初の方だけでも読んでみると良いと思います。
ここで重要なのはフィリピノ語における掛け算の式の読み方が報告されていることです。数式の読み方は言語研究の論文や辞書には出てくることがあまり無いので貴重ですね。上の論文から引用します。
- dalawa(2) pinarami(×) ng(〜を) tatlo(3) ay(〜は) anim(6)
フィリピノ語はタガログ語を基盤とするフィリピンの公用語です。ここで"ng"には日本語の助詞「を」が当てられていますが、言語学大辞典のタガログ語の説明を見ると「行為者、目的、または道具の格を表す場合の補語標識」とありますので日本語の「を」より広い範囲をカバーするようですね。"ay"はほぼtopic markerとして良いのかな*4。ちなみに「どう立式するのか」という話は出てきませんので、この例だけではフィリピノ語が英語式なのか日本語式なのかという判断はできません。
さて、フィリピノ語、タガログ語、またこの論文に出てくる生徒の第一言語であるというセブアノ語はいわゆるVSO言語です。名詞述語文などでも述語が先に来る構文を持ちます。掛け算の順序と自然言語の対応を考える人はこういう言語があることも頭にあるんでしょうかね。また英語はいわゆるSVO、日本語はいわゆるSOVの言語ですが、文や述語の種類によって同一グループ内でも要素の順番に差が出たりあるいは他グループ同士で似通ってきたりということも普通にあります。
まあ二つの数の順番のみを考えると二通りしか無いわけですから世界に数千あると言われる言語を二つに分類しても別に問題はありませんが、こういう様々なところに現れる言語の多様性/複雑さを捨象して、語順と「ひとつあたりの数」/「いくつ分の数」の順番を強く関係付ける議論はちょっと乱暴に思えちゃいます。
もちろん心理言語学や神経科学的な手法で語順とそういう認識/思考の関係が実証されたらそれは面白いと思いますが*5、教育の導入と共に他の言語の言い方をそのまま借り入れたという可能性なんかも考えないといけないと思いますし、問題は結構複雑です。
おわりに、あるいは言語と認識/思考の関係
長々と書いてきましたが、なんでこんなことにいちいち口を挟むかというと、以前から言語(表現)と認識/思考の間にかなり単純化された形で対応を考えることって結構色んなところで見られるんだ、ということが気になっていたからです。
言語研究者も言語と認識/思考の間には何らかの関係があると考えている人がほとんどだと思いますし、多くの研究もあり現在も進められています。しかし、「どの言語表現がどの認識/思考とどのような形でどれぐらい関係しているのか」ということをきちんと考えるにはものすごく色々な要因について考慮しなければなりません。もちろん思いをはせるのは自由ですよ!ある程度言い切るのはなかなか難しいという話です。
僕の力不足でそういう研究について紹介することはあまりできていないのであまり偉そうなことは言えないのですが、こういった話題をきっかけにその難しさにも思いをはせてもらうことができたらと。
*1:もちろんどの要素なら語順が入れ替えられるのかという点については多くの研究があります。
*2:言語学、心理言語学では語順が可換な場合でもどちらかが「基本」であるとか、どちらかが認識・処理上より負担がかかる、という研究もあります。注意しなければならないのは、それらの研究はあくまでも「語順(言語要素の順番)」の話であって「ひとつあたりの数」と「いくつ分の数」の順番の話ではないという点です。
*3:こういう感覚は人によって差が出ることも多いですし、僕が言語研究の専門家だから僕の感覚が重視されるべきということもありません。
*4:言語学大辞典では叙述文での述語-項の語順を変えtopic-commentの語順を作る際に付される「転倒標識」とされています。
*5:すでに研究があるのでしたら恥ずかしいところです。
2012-02-18
■[学問]ポスドクのうちに書いておこうシリーズ4:非常勤講師こぼれ話
- ポスドク?になって院生の頃にやっておけばよかったなーと思ったこと - 思索の海
- ポスドクのうちに書いておこうシリーズ2:厳しさとか人とのつながりとか - 思索の海
- ポスドクのうちに書いておこうシリーズ3:人文と自然科学と - 思索の海
あくまで個人的体験と伝聞がほとんどですので参考程度でお願いします。分野や大学やその他色々な要因に状況によって色々なんじゃないかなと思っています。担当していた授業は分野で言うと日本語学、言語学、留学生への日本語教育です。
大学院博士課程を修了後、非常勤講師で大学の授業を担当するようになってから三年度目が終わろうとしているところです。ちなみに最初の二年度は研究員もやっていましたが、今年度はほぼ非常勤講師だけで生活していました。
あ、あと愚痴とかそういうものではなくてこの時期の体験や考えたことを簡単には忘れたくないという整理・記録の意味合いが強いです。
教歴のカベ
非常勤講師を経験することによって教歴が積めるのだけれどそもそもその非常勤講師になるのに教歴が必要な場合があって最初がハードル高いというお話。
非常勤講師にどうやってなるかというとおおよそ、1)公募、2)その授業の担当の教員から直接あるいは間接的にお誘いがかかる、3)知り合いの先生や先輩の後任として声がかかる、というようなケースが多いのではと思います。
2)や3)だと声がかかるわけだからうまく採用されるんではと思っちゃいますが、教歴が無いことによって結局他の人に話がいったという事例を結構な頻度で聞きます。
僕は運良くそういうことにはならずにスタートが切れたのですが、非常勤講師控え室なんかで他の講師の方と話をしていても、そうやって最初の非常勤講師職につくのに苦労している人がいるという話はちょこちょこ出てきます。
というわけで、もし非常勤講師の話が来たら、院生で博士論文執筆中なんていうかなり厳しい状況でも考慮してみるのがいいのではと最近思います。僕もエラそうなことは言えなくて、博士論文を書いている時にお話をもらっていたらきっと辞退していた気がしますが…一回話が来ると次もあるかなと思ってしまうのですが、次来た時にはそれが要教歴のやつかもしれませんよ。いや、なんか脅してるみたいですみません。
時間割などを組み合わせるのがなかなか難しい
最初は授業準備にすごく時間と手間がかかるのでそもそもそんなにたくさんコマ数を持つのは大変なのですが、それなりに無いと生活が厳しくなることも。
一つの大学で多くのコマ数を担当するのであればそれほど問題は無いと思うのですが、複数の大学で授業を持つということになるとなかなかうまく噛み合わなかったりします。
そもそもその授業の曜日・時間が固定されていることもありますし*1、希望を出せる場合でも自分が希望する曜日・時間が必修など他の授業のために確保されていて調整が難しくなるなんてことも。
僕は曜日・時間がどうしても調整できなくて泣く泣くお断りした話もいくつかありました。その辺りうまくできていたら今年度はもう少し経済的に余裕があったかなと思うのですが…物理的には配置可能でも大学間の移動距離を考えると無理、ってこともありますしね。
あとある程度募集が集中する期間というのはあるのですが、非常勤講師の話が決まる時期も時間割の希望を出す時期もまちまちなので、学生が自分の時間割を組むのとは違ってなかなか計画が立てにくいところもあります。これは二年目以降からはうまくやれる可能性が高まると思いますが、僕は初年度は結構苦労して、案の定かなり厳しいスケジュールを組んでしまいました。
これは自分にとってはなかなか盲点でした。うまく時間割が組めると組めないとでは研究やその他に割ける時間も変わってきますし。
研究室が無い
研究室があるのはホントうらやましいですねー。
ぜいたくな話だと思うのですが、非常勤講師控え室ではいまいち集中できなくて…あと部屋によっては机とコンセントが離れすぎててpcを使うのに苦労したり*2。
かといって食堂や休憩スペースなどでは学生と顔を合わせる可能性があってあまり使えず、結局最寄り駅の近くのマックとかに行くわけですが、それも学生と鉢合わせしそうなところは避けてました。いや、僕は気にしないのですが向こうが教員がいるって知っちゃったらくつろげないかなと思って…だから知らない学生はあまり気にしてません。
あとこれは研究室の有無とはそこまで関係無いのですが、複数の大学に行くことになるとロッカーなどがあっても結局資料や本を毎回持ち帰らなければならないことが多く、カバンが重かったですねえ…僕が心配性で多めに持ち歩いちゃうってのも悪いのですけれど。茨城に住んで毎週千葉、神奈川、埼玉に遠征するっていうのがムチャな話にも思えますが、選択肢なんて無いですし、というかこれだけコマ数持たせてもらってるのがそもそも大変ありがたい話。
研究費が無い
当たり前の話なんですが、顔を売りたくても参加したくても学会やシンポジウム開催場所が遠いと躊躇・断念したり*3。さらに学会費が学生会員から一般会員になるのも意外と痛いです。学振取れなかったお前が悪いとか言わないでえぇぇ
おわりに
結局愚痴じゃねーかって気もしますが、やってみて初めて気付かされたこと、実感したことを中心に書いてみました。もちろん非常勤講師を経験して得たこともたくさんあって、それは感謝してもしきれないほどですが、それはまた別の機会に。
最後にくどいようですがあくまで体験談ですのであまり一般化されないようお願いします。僕がうまくやれていないために大変になってるだけって点も色々あるでしょうし。
2012-02-17
■[言葉]「世界一ロマンチックでない「I love you」は日本語」なんだって
たぶんネタにマジレス的な何か。
英ロンドンに拠点を置く翻訳会社トゥデー・トランスレーションズが言語の専門家320人以上を対象に実施した調査で、フランス語で「愛」を意味する「amour」が、世界で最もロマンチックな単語に選ばれた。
(中略)
一方、ロマンチックではない響きがする「I love you」の言い方では、SFシリーズ「スタートレック」で使われるクリンゴン語だという「qaparha」などを抑え、日本語の「私はあなたを愛します」が1位となった。
こんな扱いを受けちゃうと金谷氏の本に共感する気持ちもわかりますねえ。直訳でもせめて「愛します」ではなく「愛しています」にできなかったものか。google翻訳でさえ「私はあなたを愛しています」と出るんですけど大丈夫なんだろうかこの翻訳会社…
まあこの「ロマンチックな」というテーマ設定からして実質はほぼ「好きな言語ランキング」なんだろうなと思いつつ、英語のほうの記事まで読んでしまったのでもう少しいちゃもんを付けておきます。次がロイターの英語版の方の記事。
んで当のトゥデー・トランスレーションズのサイトの記事。
こちらには日本語への言及はありませんね。気になっていたのは「言語の専門家」が誰なんだろうというところなんですけど、
The survey was conducted by London-based Today Translations which polled over 320 of its linguists.
Is this the world’s most romantic word? - Translation Company Press Room
とあって言語学者をそんなに雇ってるなんてすごい!とか思っちゃいましたがまあこここでは「語学/言語に堪能な人」ぐらいの意味でしょうかね(追記も参照下さい)。だって
とありますが*1助詞の「は」は"wa"としているのに「を」は"wo"としてて日本語の論文なんかを読んだことのある人のチェックが入っていないんじゃと疑ってしまいます(通常は"o"で表記)。いや論文というか入門書とか日本語の教科書レベルでも出てくる話か…ちなみに江戸時代より前とか一部の方言だったら"wo"でも良いんですけど。実際僕は"wo"で発音する方言話者ですし。
そもそも調査で使用した各言語の表現は音を聞かせたのか文字で見せたのか。音で聞かせたなら録音の時にネイティブかあるいはネイティブに近い発音ができるほどの話者からこの表現にクレームが入るよなと思いますし、そうすると文字?まさかどの言語もラテンアルファベットで表記して聞いたんですかね。いや表音機能が便利だというのはわかりますが…
まあしかし色々問題はあるにしても世界に数千あるとも言われる言語を手話まで含めて調査したっていう行動力には感心させられます。え、まさか百に満たない程度の数の言語を取り上げて「世界一」なんて言ってませんよね。
追記
もしかしたら調査側から例を提示したのではなく、回答者が例を挙げるような形式だったのかもしれません。それでしたら後半のいちゃもんは的外れですね。でもそれだと回答者が知ってる言語しか出てこないよな…
追記(2012/02/18)
"linguist"の意味を「「語学/言語に堪能な人」ぐらいの意味でしょうかね」と書きましたが、翻訳会社では翻訳者のことを"linguist"と呼ぶことがあるという情報をいただきました。
僕が推測したような「堪能な人」というようなあやふやなくくりではなく、翻訳や通訳といった一定の専門的技能を持った方々を指しているという可能性が高いようです。
情報感謝いたします。
2012-02-15
■[言葉][ネタ]【研究ノート】「ドラゴンクエスト」シリーズにおける呪文名の形態論的記述に向けて
0. はじめに*1
本稿は「ドラゴンクエスト」シリーズにおける呪文名に対する形態論的な観点からの記述の準備として、記述方法や論点、重要なデータの整理を行い、議論の足がかりを作ることを目的とする。従って全ての呪文名を取り上げることはせず、形態論的な派生関係や接辞類の考察に有用だと考えられる呪文名を主に取り扱う。また、各語彙/形態素の由来・語源は考察対象としない。
できるだけ多くの現象・論点に言及しようと務めた結果、全体としては雑駁な論考になってしまったが、今後の研究の叩き台となれば幸いである。
1. 対象と方法
1.1. 記述対象
「ドラゴンクエスト3」の呪文名を対象とする。なお、呪文(名)とその効果については以下のページを参考にした。
3のみを取り上げる主な理由は、3においてその後のシリーズにも引き継がれていく呪文の基本系統がある程度出揃い、また体系的な記述を行うのに魅力的なだけのデータ量があるという点である。4以降も基本的に呪文は増える傾向にあり、特に9において多くの呪文が追加され形態論的な考察には向くが、筆者が8および9は未プレイであり内省に自信が無いこと、また複数の作品を取り扱うと作品によって効果が異なる呪文の取り扱いが複雑になることから今回は対象を3に絞ることとした。しかし、考察の都合上他作品に登場する呪文(名)に言及することもある。
1.2. 派生に関わる素性
文法的素性とその値としては次の二種類を仮定し*2、以下にある例のように記述する。なお、《威力》は「ダメージ」「成功率」の両方をカバーする素性である。
- 《対象》:値としては[+単体][+グループ][+全体]
- 《威力》:値としては[+増][+減][+最小][+中][+最大]など
例:ベギラマ:《対象[+グループ]》《威力[+中]》
《威力》の値としての[+増][+減]は相対的な威力の変化を担う素性であり、[+最小][+中][+最大]は絶対的な威力の程度を担う素性であるとする。両方を仮定する理由は、同系統にある呪文名が段階的な派生を経ている場合と、最小威力の呪文名から直接派生されていると分析できる場合があるからである。たとえばメラ系を例にとると、最大威力の「メラゾーマ」は、形態上は中威力の呪文名「メラミ」を経ているわけではなく(=「ミ」という形態を含まない)「メラ」+「ゾーマ」という構成によって「メラ」から直接的に得られる。相対的な威力の変化と呪文名の関係については以下の記述で具体的に述べる。
なお、「火炎」「回復」「すばやさ上昇」といった各呪文系統が持つ特徴は形態的派生によって変化することがほぼ皆無なので、文法的素性ではなく語彙的特徴であると考えたい。また、たとえばギラ系は常に《対象[+グループ]》であり派生による値の変化は起こさないが、このような場合は語彙に指定されている文法的素性としておく方が体系的な記述のためには良いと考えられる。
1.3. 語幹の認定について
語幹は「語形同士の差異から切り出すことのできる接辞類を除いた最大の部分」とする*3。なお便宜上、形態素境界が音節を分断する場合はローマ字表記とし、それ以外は片仮名表記を用いる。分析の方法によっては語幹の範囲の可能性が複数考えられる場合もあるが、本稿では取り上げない。
2. 接辞類
「ファイナルファンタジー」シリーズにおける接辞「ラ」「ガ」に比べると、規則的あるいは生産的な接辞は比較的少ない。ここでは、複数の呪文系統に出現しかつ派生に関わる形態素を接辞と考えておく。
2.1. 接頭辞「ベ」
「ホイミ」→「ベホイミ」、「ギラ」→「ベギラマ」の派生を考えると《威力[+中]》あるいは《威力[+増]》の素性を担うのではないかと考えられる。「ギラ」→「ベギラマ」の例では「べ-マ」が接周辞(circumfix)であると考えることもできるが、以下に述べる接尾辞「マ」の存在や日本語が基本的に接周辞を持たない言語であることを合わせて考えると、「べ-マ」は接尾辞と接頭辞のペアであるという可能性が高いように思われる。
2.2. 「マ」
基本的には接尾辞であろう。「バギ」→「バギマ」の派生から《威力[+中]》あるいは《威力[+増]》の値を持つ接辞ではないかと考えられるが、「ベホマ」が「ベホイミ」からの派生であると考えると、《威力[+増]》である可能性が高い。しかし、ホイミ系に現れる「マ」は「ミ」の音変化と分析できる可能性もあり、現段階では強い証拠とは言えない。
「ヒャド」→「マヒャド」の場合の「マ」は《威力[+最大]》の値を仮定する必要があるため上記の接尾辞の「マ」との共通性がそこまで見られないが、英語の"en"のように接頭辞としても接尾辞としても現れる接辞(例:en-rich, sick-en)の例も無いではない*4し、《威力》という文法的素性に関わるという点では共通しているのでここでは括弧書きで示しまとめて記述しておくこととした*5。
また、シリーズ4で出てくる「ラリホー」→「ラリホーマ」の派生では「マ」の付加により《威力》の値が変化していて上記の接辞「マ」との共通性が見られる。しかしこの派生では同時に《対象》の値も[+グループ]から[+単体]へと変化しており、シリーズ5〜8では再び[+グループ]の値を取り戻しているものの、シリーズ9では[+全体]に変化し、「ザラキーマ」「メダパニーマ」における《対象[+全体]》の値を持つ「ーマ」に合流していった様子が見て取れる。これは「ラリホー」の語幹末の長音と接辞「マ」の組み合わせが直前の音節の長音化の力を持つ「ーマ」に再分析されていった過程であると考えられよう。
2.3. 接尾辞「ズン」
「イオ」→「イオナズン」の派生から《威力[+最大]》の値を持つと分析したいところだが、「ベホマ」→「ベホマズン」の派生を見るとむしろ《対象》の値が変化しており([+単体]→[+全体])、文法的素性というよりは「その系統における最難度」を表すような接辞であるのかもしれない。
なお、「イオナズン」の「ナ」は「イオラ」の「ラ」の音変化の可能性も考えられ*6、そうすると「イオラ」→「イオナズン」という派生関係になるので、「ズン」に指定されている素性は《威力[+増]》であると分析できる可能性も浮上する。現段階では考察に該当する語形が少なすぎるので、今後新しい呪文名が出てくることに期待したい。
2.4. 「ラ」
「イオ」→「イオラ」の派生からは《威力[+中]》あるいは《威力[+増]》の値を持つ接辞であると考えられるが、「ザキ」→「ザラキ」の場合は《対象[+グループ]》かつ《威力[+減]》の値を付加するため両者の共通性は見えにくい。「ザラキ」の場合「ラ」は接中辞(infix)であるが、接中辞は接頭辞に近い性質を示すものは存在する*7一方、接尾辞に近い例は(管見の限りでは)あまり無いということも考慮すると、接尾辞「ラ」との共通性についてはやはり疑問が残る。
この接中辞の「ラ」は《対象[+グループ]》かつ《威力[+減]》の値を持つという点では「ベホマ」→「ベホマラー」に見られる「ラー」との共通性が見て取れるが、長音の存在が気になるためここでは括弧書きで示している。「イオナズン」が括弧書きで示してあるのは前項目「ズン」で述べた分析の可能性を取ると「ナ」は「ラ」が音変化したものとも考えられるからである。以上のことを合わせると、「ラ」を接辞としてたてるにはまだ根拠が弱いのではないかと思われる。
2.5. 接辞とその機能について
以上見てきたように、複数の環境に生起する少数の接辞についても、素性やその値が一定でないことが多い。ここでは接辞と文法的素性を対応させた記述を行ったが、各系統に単なる呪文のレベルのようなものを設け、そのレベルと接辞が対応すると考える方がすっきりした記述が可能になるかもしれない(cf. Word and Paradigmモデル)。また、各接辞は単に形態的な差異を表すという機能を担っているだけという可能性も考えられる*8。
3. 各論
全ての派生関係を取り上げることはできないので、ここでは特に興味深いものについて考察する。
3.1. ヒャド系
1.3で示した定義からは、語幹は「hyad」ということになる。では「hyad-o」の「o」は何かという疑問が浮上してくるが、「ヒャド、マヒャド」対「ヒャダルコ、「ヒャダイン」という後続形態素の有無による対立を考えると、「hyad-o」は露出形、「hyad-a-」は被覆形ではないだろうか(例:「雨 ame」対「雨傘 ama-gasa」、有坂(1934))。しかし、露出形-被覆形には/o/-/a/という母音のペアが存在しないという問題点はある*9。
さらに、この系統の呪文名はその形態的派生に《威力》と《対象》の二つの素性が関わるためか「ヒャダイン」という語形の存在と後続シリーズにおける消失という体系性から見ると興味深い現象が見られるが、この問題については稿を改めて論じることとしたい。
3.2. すばやさ、守備力増減系
まず、ルカニ系の語幹は「rukan」、スカラ系の語幹は「suk」となり、上記ヒャド系と同じく閉音節で終わる語幹を持つことを指摘しておきたい*10。また、シリーズ9で「ピオリム」に対して「ピオラ」、「ボミオス」に対して「ボミエ」という呪文が登場していることは、「ルカニ-ルカナン」、「スカラ-スクルト」という対立に対応する形で体系の“あきま”を埋める動きとして注目に値する。
4. おわりに
以上、非常に荒いものではあるが具体的な記述、分析例を示した。以下では主に残された問題、今後の課題について簡単に述べたい。
4.1. 音韻論的観点からの記述
本稿ではアクセントについて記述することはできなかった。形態的派生とアクセントパターンの関係についての記述および考察は重要である*11。また、同系統内では基本的な呪文ほどモーラ数が少なく、強力な呪文ほどモーラ数が多くなる傾向にあることも形態論的な観点からは気になるところである。
4.2. 歴史的変遷
1.1で述べたように基本的にシリーズ3を対象としたため、語形あるいは体系全体の歴史的変遷についてはほとんど考察することができなかったが、いくつか指摘したように興味深い体系の変化は見られる。ちなみに作品内での時間関係よりは、現実世界での作品の時系列に沿った方が言語学的な研究には向くのではないかと考えている。
4.3. 対照研究の可能性
他体系(ファイナルファンタジーシリーズ、ウィザードリィシリーズなど)との対照研究も興味深い所ではあるが、そのためにはまず各体系における魔法名、呪文名の記述が必要であろう。ドラゴンクエストシリーズとともにそれらの研究が今後盛んになることを期待してやまない。
4.4. その他
他にも本稿で接辞として取り上げることのできなかった派生に関わる形態素(例:「ベギラゴン」の「ゴン」など)をどのように扱えばよいのかという大きな問題が残されている。それと対になる問題であるが、各呪文系統の具体的な分析もほとんど示すことができなかった。先に述べたようにドラゴンクエストシリーズの呪文名はそれほど体系的な派生関係を作っていないように見受けられるが、だからこそ形態論的には興味深い研究対象になるとも考えられる。今後の研究の発展が楽しみである。
引用文献
- 有坂秀世(1934)「古代日本語に於ける音節結合の法則」『国語と国文学』11(1).(『国語音韻史の研究 増補版』, 1957, 三省堂 所収)
- 川端善明(1997)『活用の研究1』清文堂出版.
- Kitagawa, Chisato and Hideo Fujii(1999) “Transitivity alternation in Japanese,” Papers from the Upenn/MIT Roundtable on the Lexicon (MITWPL 35): 87-115.
- 松本克己(1995)『古代日本語母音論―上代特殊仮名遣の再解釈―』ひつじ書房.
- 坪井美樹(2001)『日本語活用体系の変遷』笠間書院.
補遺(という名の追記)
接中辞(infix)についてはアメリカ英語の-fucking-を例に書いたことがある。参考にされたい。
*1:本稿の執筆にあたって黒木邦彦氏、吉村大樹氏をはじめ数名の言語研究者諸氏より貴重なご指摘をいただいた。記して感謝したい。もちろん本稿における不備や誤りは全て筆者の責任である。
*2:《威力[+最小]》の値などは記述の際は未指定としてよいかもしれない。
*3:本稿では「語幹/接辞」や「派生/語形変化」などの概念をどのように考えるのかという問題には立ち入らない。
*4:ただし、ここでの"en"は派生接辞であり屈折接辞ではないことに注意されたい。
*5:さらに、「メラゾーマ」も「メラ-ゾー-マ」のように分解すれば接尾辞「マ」が含まれていることになるが、理論的にも経験的にもその根拠が弱いためここではその可能性を指摘しておくだけにしたい。
*6:黒木邦彦氏の指摘による。
*7:オーストロネシア系の言語に見られる接中辞には頭子音の存在の有無により接頭辞としても振る舞うものがある。
*8:形態的な差異という要因が屈折形態論において重要であるという研究はたとえば坪井(2001)などを参照されたい。また、Kitagawa and Fujii(1999)は自他両用の形態素-eについて形態的な差異を表す機能を持つというような分析を提示している。
*9:松本(1995)、川端(1997)には上代語における/o/-/a/の母音交替の例が提示されているが、いずれも語幹内の母音の対立で意味の変化に関わり、後続要素の有無には関係が無いようである。
*10:他には「ザオラル」「ザオリク」の語幹「zaor」が挙げられる。
*11:ドラゴンクエストシリーズの呪文体系 - Wikipediaの「ボミエ、ボミオス」の項目でなぜかここだけ「アクセントは「ボ」」という記述がある。
2012-01-24
■[blog][雑記]書き残していること、あるいは今年の課題
こんなの書いてる間に一つ書けよ、という気もしますが年の始めおよび年度末ということもあって備忘録として。あるいは宣伝という話も。
大体列挙したつもりなんですが漏れありますでしょうか…一応はてブの「書くかも」タグなどは定期的に見直してはいます。
ニセ科学・「専門家と素人」
見直すと結構色々書いてきたんだなあと思います。実は下書きしてあるものは一番多いんですけどあまり形になりそうにないものばかりです。あと自分が考えていること、言いたいことが他の方のブログやついったーで言われていることが多いのでまあいいやとなることも多く。でもそういうのを紹介する記事を書くのもいいですよね。
ところで、
についてなんですが、この第一回が終わった次の年度に僕の所属が変わってしまったということもあって継続困難(休止中)な状態が続いています。ホームになる所属が無いと色々難しいということを実感した一年でした。ある程度安定した就職ができればなんとかしたいです…
本当はちゃんと社会学などの方の研究も読んでその勉強の成果を書いていけると良いのですが。
理系文系
の評判があまり良くなかったので解説編を執筆中です。そこそこの難産ぐあい。
「日本語に主語はいらない」
今のところこれ以上金谷氏の著作に言及するつもりはありませんが、三上章関係で書いておきたいことが2つほどあります。でも文献あさって読みなおす必要があるのでちょっとめんどう…
ラーメンズで言語学
一応ネタはいくつか考えてあるのですが結構エントリを書くのに時間がかかる(文字おこしとか)のでなかなか進まない。確認のために見直すとそのまま色々見続けてしまうという難点も。
「言葉」ネタ
ブクマでも宣言したので勝手に解説エントリを計画しているのですが、元の発表を聞いてないのでちょっと書きにくいんですよね…でも「正しい言葉遣い」ネタはこっそり力を入れているここの隠れコンテンツの一つですし。
他、今まで通りちょこちょこwebで拾ったネタについて書いていこうかと。
ポスドクのうちに書いておこうシリーズ
- ポスドク?になって院生の頃にやっておけばよかったなーと思ったこと - 思索の海
- ポスドクのうちに書いておこうシリーズ2:厳しさとか人とのつながりとか - 思索の海
- ポスドクのうちに書いておこうシリーズ3:人文と自然科学と - 思索の海
あと2つほど軽めのネタが。下書きに書いておかないと忘れそうだ。
あまり書く予定が無さそうなもの
水伝関係
最近ふと過去の関連エントリをざっと読んでみたのですが、結構色々書いたもんだなあ、と。今のところ書き加えることは無さそうです。
フリスタ関係
実はこんなこともやっているのですが最近全然蹴ってないので…今やったら基本技も怪しそうな気も。
2012-01-22
■[学問][雑記]ノートの取り方は僕も習ってみたかった
大学における、いわゆる初年次教育やリメディアル教育の内容を取り上げて嘆く、というのはここ数年定期的に話題になっている気がする*1。
でも、これらの中でもたとえばノート(メモ)の取り方とか、手紙/メールの書き方とか、自己紹介の仕方とかって環境や内容が変わるとまた新しく習得しなきゃいけない技術や知識も出てくるんじゃないかな、と。就活の時期になったらそれに合わせて自己紹介の仕方を練習するとかしないのかな。
その中でもノート(メモ)の取り方ってなかなか難しい技術だと思う。僕自身、今でも色々模索しているし、大学院の入学後も「大学院でのノート(メモ)の取り方」って改めて授業で取り扱って良いぐらいだと考えている。
上で嘆いている人たちは大学なんかで友人にコピーの順番待ちをさせるぐらい素晴らしいノートを作ることができていたってことですよね、うらやましい。でもそんな人はどの大学でもそんなに数は多くないんじゃないかと思ってた。まさか自分はダルくて真面目にやらなかったけど本気出せばノートを取るなんて簡単、とかじゃないですよね。
もちろん大学(教育)としてその辺りの技術/知識の習得にどれぐらいのリソースを割くべきなのか、という議論はあるだろうし、そんなものは授業で与えても身に付くようなものではないしむしろ自主的な成長を阻害するので授業では取り扱わない方が良いというような意見もあるだろうけれど、僕はある程度の「型」や知識は最初に与えてしまうべきだと(今の段階では)考えている。
なぜかって、そういう「型」や知識を知ったらいきなり上手くなるわけでも「もう知ってるからそこで終わり」でもないし、むしろそこから自分に合わせて、あるいは自分の環境の中で技術や知識をどう使うかを試行錯誤していく過程に、より時間やリソースを割く方が良いのではないかと思うからだ。
2012-01-07
■[理系文系][学問]ポスドクのうちに書いておこうシリーズ3:人文と自然科学と
以下の本に面白い下りがあったので紹介もかねて。
- 作者: 堀田凱樹,酒井邦嘉
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2007/03
- メディア: 新書
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Y「大学時代、授業で習ったチョムスキーの言語学に衝撃を受けましたが、この頃の私にとっては言葉に関する学問というのは、人文科学の領域に存在するものでした。つまり言語学は文系の学問でしかありえない、と。しかし、酒井先生の『言語の脳科学』を読んで、言葉の核にある文法というものが今や科学の世界では遺伝子や脳のレヴェルで解明されようとしていることに、非常に衝撃を受けました。このような自然科学の精密なアプローチによって言語が解き明かされていくならば、いわゆる人文科学的な方法論による言語学というものに、今後まだ、出る幕はあるのでしょうか。」
酒井「チョムスキーは、言語学を自然科学にしたかったので、モデルとして使っているのは物理学の原理です。私がMITで言語学に接したとき、これはまさに物理そのものだと思って感動しました。言語学がこうした理科系のアプローチによってますます発展していくということを確信したのです。
その一方で、人文系のアプローチの良いところは、理科系のような正攻法で進めず、論理的に進めないところを飛躍してしまうところです。たとえば、この文章はうまいとか、人を酔わせるとか、感動させるとか、そういう主観的なものを科学的に解明するのはまだ難しいわけです。人文系の方が、複雑なシステムの本質を、軽やかに見抜いているところがある。心理的な問題だってそうです。脳科学が対象にする精神現象は、精神分析との間にかなりのギャップがあります。私たちは、その溝を埋めていこうと努力をしているところです。ですから、人文系の人たちも、自然科学をあまり毛嫌いしないで応援してくれると、いろいろな新しい可能性が生まれてくると思います。」
堀田「僕も、人文科学的なアプローチがなくなっていくとは思っていません。ただ、強いて言わせてもらえば、人文科学の方は、必死で努力しているのでしょうか。理系の科学者の方は、本当に必死で努力している。そうしなければこの世界で生きていけない。人文系でも命をかけて努力する人は、確実に人文系を開拓していくはずです。自然科学だけではできないことはたくさんあるわけですからね。だから、彼らは本当に勝負しているんだろうかと、正直に言って不満に思うことはあります。勝負していない人たちが行き詰まるのは当たり前。そういうことです。」
(同書, pp.81-83)
Yさんはサイエンスカフェの参加者ですかね。結構厳しいことも言われていますね(^^;
従来の人文(科)学のアプローチ(の延長)でやれることはたくさんあると思います。言語の記述に限っても、できることは色々残されてるんじゃないかな。
ただ、自然科学や工学の人たちと、もっともっと交流を深めてもいいんじゃないかなあ、というのがここ数年の実感。言語学・自然言語処理合同勉強会での体験も大きいのですが、その他でも、他領域の人たちと話していると言語学/言語研究の知見や知識って気にされていたり期待されていたり興味を持たれたりしていることって意外と多かったのですよね。もちろん逆に、言語学の方で自然科学/工学の成果や知識を知っておいたほうがいいだろう、と感じることも多いです。
院生の頃の話に引きつけて言うと、まあこれは別に自然科学に限らないのですが、他の研究分野の院生がどれぐらい勉強/研究しているのか知るってのはとてもいい刺激になるんじゃないかと思います。僕が未だに覚えているのは、理論物理の院生と話をしていて、彼らのゼミの長さとか勉強量とか、何よりそれらが普通だという感覚に衝撃を受けた体験ですね。単純に量とかで比較して勝ち負けとか言えないかもしれませんが、「負けてられない!」と強烈に思いました。今でも思い出せますし、また忘れないようにしています。似たようなことは哲学の院生とか他大の言語学の院生とかと話して感じたこともあるので、別に人文/自然科学っていうような話でもないんですけどね。あと実験系の人たちが実験にかける手間や実験のデザイン/手順の話を聞くと、「事実/現象が何かを明確にすること」がいかに重要で大変なことなのかが再確認できて良かったり。
結局これも人とのつながりって大事だよ、っていう前のエントリの話につながっていきそうですね。自分は院生の頃、本当に良い出会いに恵まれたし、今でも恵まれているなと思います。



