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2016-05-12

[]【宣伝】『日本語文法研究のフロンティア』という論集に動名詞の自他の形態論(+外来語)の話を書きました

 こんなエントリを書いている場合ではないだろうという声があちこちから聞こえてきそうですが、Amazonにも情報が出ていたので宣伝しておきます。

日本語文法研究のフロンティア

日本語文法研究のフロンティア

発売日は6月1日になっていますね。5月の学会の展示販売では買えるようですが。

 ちなみに、各論文のタイトルはくろしお出版のサイトから見ることができます。

目次

[形態論と統語論のフロンティア]

動名詞の構造と「する」「させる」の分布 田川拓海

現代日本語における未然形 佐々木冠

旧JLPT語彙表に基づく形態素解析単位の考察 森篤嗣

名詞並置型同格構造 森山卓郎

文の階層性と文中要素の解釈 長谷川信子

[意味論のフロンティア]

日本語に潜む程度表現 中俣尚己

母語話者と非母語話者の逸脱文の意味解釈 天野みどり

構文としての「切っても切れない」 佐藤琢三

[文章・文体・発話研究のフロンティア]

社会科学専門文献の接続詞の分野別文体特性 石黒圭

「話しことば的」な文章に見られる話しことばとは異なる表現 野田春美

4つの発話モード 定延利之

[対照研究、習得・日本語教育研究のフロンティア]

日本語と中国語の真偽疑問文と確認文の意味 井上優

教育現場とのつながりを意識した対照研究の試み カノックワン・ラオハブラナキット・片桐

第二言語習得研究と第二方言習得研究の統合に向けて 渋谷勝己

「産出のための文法」から見た「は」と「が」 庵功雄

非母語話者の日本語理解のための文法 野田尚史

くろしお出版WEB - 日本語文法研究のフロンティア

 トップバッターですね…ちなみに僕だけ助教なんですが、「一番下っ端がフロンティアへの切り込み隊長」ってなんか死亡フラグ的な響きが…

ポイント

 さて、この論文は副題まで含めると

  • 動名詞の構造と「する」「させる」の分布─漢語と外来語の比較─

となっています。

 取り扱っている現象は、それ自体では自他同形である動名詞(サ変動詞)のタイプと、それにつく「する」「させる」の振る舞いがちょっと複雑であるというもので、先行研究も色々あります。

 いつも通り(?)統語的な分析を提示しているのですが、その対象を漢語系の動名詞(例:勉強する)だけでなく、外来語系の動名詞(例:チャレンジする)にも広げたところが、個人的にはこの論文の面白いところだと考えています。

 日本語の動名詞の研究って漢語系の語彙についてはかなりの蓄積があるのに、外来語系の語彙についてはあまり言及がないのがこれまで不思議だったのですよね。調べてみたら、思ったより研究が少なくて驚きました。

 あまり緻密な調査をしたわけではないのですが、そこそこの量の外来語動名詞のリストを補遺として付けてありますので(自他のざっくりとした分類付き)、ぜひこれから色んな方にいじりたおしていただきたいです。記述だけでもかなりやることあると思いますし、理論的に見ても色々おもしろいことが見つかるかもしれません(たとえばre-や-ingといった接辞が借用された時にどうなるのかとか)。

理論研究への思い

 ふだんはあまりこういうこと書かないんですが、せっかくの機会をいただきましたので、理論研究と日本語研究に対する個人的な思いについても最後に少し書いておきました。ちょっと長いですが下に引用しておきます。あくまでも僕の立場から見ると、という話であることにご注意下さい。内容が内容だけに弱気な表現が多いです…

 最後に,日本語研究における理論研究について少し触れておきたい。

 “いわゆる”理論研究と“いわゆる”記述研究の接点を探る試みは定期的に行われているが ,各研究分野が発展を続けている状況において個人が両方の研究をフォローし続けることは年々困難になってきているとさえ言えるだろう。筆者にはその両方に関わり続けることで自身の研究が進んだり,面白いテーマが見つかったりするという体験・実感があるので,できれば多くの研究者にお勧めしたいところであるが,上記のような事情もあり実際にはなかなか気軽には踏み切れないかもしれない。

 理論研究が主眼でない研究において理論研究に言及したりその枠組みを援用したりする場合に多いのは,その概念等を問題解決・分析に使うというやり方であるように思われるが,ここではそれに加えて,理論研究(の知見)を問題発見のために(も)使ってみることを提案したい。理論研究の問題設定,テーマにはもちろん各理論特有のものも多いが,その理論の外である程度広く共有できるものもまた多く存在する。

(具体的な分析に触れているところなので中略)

 また,本稿で取り上げた外来語のように,多くの研究の蓄積がある現代日本語(共通語)においてさえ現象面の解明や詳細な記述がまだまだ必要なことも多い。そのような新しい記述が記述研究だけでなく理論研究にインパクトをもたらすこともあるだろう。筆者は外来語がその候補の一つになりうるのではないかと期待している。

 筆者の個人的な信念として,「良い理論は良い記述を生み出し,良い記述は良い理論を生み出す」というものがある。残念ながら筆者個人でそれを実現することができたという実感はまだないが,そのような研究や交流には実際に遭遇してきた。特に複数の研究者が交流・関係を持つことによって実現される可能性は現在の状況においても高いのではないだろうか。本稿を読むのはおそらくどちらかというと記述研究になじみがある方が多いのではないかと想像しているが,これを読んで「理論研究者と(もう少し)話をしてみよう」「理論研究のイベントに(少しなら)参加してもいいかな」といったことを考えてくれる方がわずかでも増えてくれれば,日本語を対象とした理論言語学研究に携わっている者としてこれ以上の喜びはない。

おわりに

 僕のものはおいておいても豪華な内容になっていると思いますし、どこかで手に取っていただければ。僕もこれから他の方の論文を読むのが楽しみです。

2016-03-22

[](非在籍者による)三原健一先生と大阪外大の思い出

 日常に流されているうちにあっという間に時間が経ってしまいましたが、先週大阪大学箕面キャンパスで行われた三原健一先生の最終講義に参加してきました。三原先生のWikipediaのページはだいぶ情報が少なかったのでAmazonのリンクでもはっておきます。

下記の言語学会のシンポジウムや

論文集でもお世話になりましたので(宣伝)、

活用論の前線

活用論の前線

教え子だと思われていたこともあるようなのですが、実は私は三原先生の授業は一度も受けたことがありませんし、ゼミに出たこともありません(厳密に言えばゼミの合宿に参加させていただいたことはあります)。

 ちなみに、「先生」と勝手に呼んでいるのは、学恩があると勝手に思っているからです。

 私が生成文法の枠組みで活用の研究をしてみようと思ったのにはいくつかの要因があるのですが、その一つとして、

の論文の最後に活用の研究って(まだまだ)必要じゃない?的なことが書かれていたというのがあるのですね。背中を押してくれたというか。

日本語学と生成文法

 私が研究を始めてまだ15年経っていませんが、いわゆる日本語学から研究のキャリアをスタートした人が生成文法を基盤にした研究をすることは減っているという印象があります。その良し悪しは別として、三原先生の退職というのは一つの象徴的な区切りに見えてしまいました。そんな状況にあるからこそ私みたいなのが研究者として生き延びられるという側面もあるのかもしれませんが…

大阪外大

 久しぶりに箕面のキャンパスに行ったのですが、懐かしかったです。

 実は筑波大学と大阪外大(の日本語研究関係)は私が筑波大で院生になる前に合同で勉強会・研究会をやっていた時期があったようなのですが、当時三原先生のゼミに所属していた依田悠介さんの尽力によって、数年間復活させることができたのですね。その期間は筑波大の方から大阪外大に行ったり、逆に大阪外大の院生の皆さんに筑波大に来てもらったりしました。結局うまく引き継ぎができず、次の世代に受け渡すことはできなかったのですが…

 その合同勉強会には三原先生のゼミ以外からも参加者がいたのですが、中心はやはりそこというわけで、色々お世話になりました。というか、今もお世話になっています。卒業生の方も勉強会に来てくださったりもしました。私だけ懇親会に参加ということもあったりして、「なんか東の方から飲み会に参加しに来てるやつ」ぐらいの認識の方もいらしたのではないでしょうか。そんなやつにもよくしていただき、本当に三原先生とゼミの方々には感謝です。

 さいきん大阪の方にはあまり足を運ぶことができず、行ってもすぐ帰らないといけないことも多くて、ちょっとさみしいですね。この最終講義の日も日帰りでした。

 というわけで、私は大阪外大に何らかの形で所属していたことはないのですが、あの箕面のキャンパスは院生時代の大切な思い出の一つです。部外者の勝手な感傷ですが、箕面キャンパスの移転の話を聞いたときは少しさみしさを覚えました。

おわりに

 最終講義の話はぜんぜん書いてませんね…いやなんか思い出にひたってしまいまして。最終講義って「あの人も卒業生なのかー」みたいなのが分かっておもしろいです。こんなに院生時代からふらふらしていられたのは私の所属ゼミの方針が「どんどん外に武者修行に行け」で、私はそれをよいことにかなり好き勝手やってきたのですが、今思うと本当にありがたいです(当時はそれが当たり前でしたので…)。

2016-03-10

[]【告知】形態理論研究会第2回:Zero exponence/morph(3/28, 早稲田)

 第1回は告知しなかったような…どういう催しなのかということについては下記のページなどご覧下さい。

 第2回のテーマは標記の通りゼロ形態です。以下、予定の部分もいくつかありますが概要。

  • 日時:2016年3月28日(月)13:00–17:00
  • 場所:早稲田大学早稲田キャンパス8号館3階303/304/305会議室(早稲田キャンパス南門を入ってすぐ左手の建物)
  • Ustreamのチャンネルで配信予定
  • Twitterのハッシュタグ:#wislimt21

 気軽にご参加下さい。

2016-03-07

[][]ブログのカテゴリーに「東日本大震災」をつくって過去の記事を入れました

 そんな宣言するほど書いてないんですが、5年ということもありまして。常設カテゴリーにするかはまだ決めてません。

 その記事を読むだけでは震災との関連がよくわからないものもあると思いますが、主観で関係あるかなと思ったものは入れてあります。それでも数はかなり少ないですけどね。言語の研究者としては方言に関するエントリを他にも入れたかったのですが、福島に直接言及している

だけにしました。

 この作業にあたって過去のエントリーをざっと読み返したんですが、リンク切れのリンクがかなり増えましたね(処置がめんどうなのでそのままです)。

2016-03-01

[]バド/バトミントン

 バトミントン問題についてはむかし言及したことがある。

特に新しく付け加えられる情報があるわけではないけど。気になるよね。

2016-02-24

[]紙の資料(レジュメなど)で発表する時にちょっと気をつけ(てい)ること

はじめに

 私の専門の分野(言語学・日本語学)でもだいぶスライドを使った(研究)発表が増えたなという印象があるのですが、まだ紙の資料(ハンドアウト・レジュメ)を使った発表がメインという分野もけっこうあるのではないでしょうか。

 以下は文章表現や演習の授業でおまけ的に話している内容なのですが、私が紙の資料を使った発表で個人的に気をつけていることについて少しまとめておきたいと思います(ほぼ私の経験に基づいたもので、特に根拠等はありません)。

 なお、内容についても気をつけていることはあるのですが、かなり形式的な面に絞って書いておきます。

 また、私の専門分野に限ってでさえ、研究分野や学会間で流儀の違いを感じることはあります。発表の内容やテーマによって適している発表スタイルが異なることもあるでしょう。発表の目的によっても違うかもしれません。ちなみに、私は基本的に「できるだけ多くの人から、たくさんの質問やコメントをもらう」「自分がやっていることを面白がってもらう」ことを目的として設定しています。

 あくまで参考として考えて下さい。

紙の資料とスライドの違い

 紙の資料とスライドでは、単に見るものが違うというだけでなく、下記のような違いが出ることが多いようです(会場等の環境にもよります)。

ハンドアウト・レジュメスライド
会場が明るい会場が暗くなりがち(発表者の顔が見えない・眠気を誘う)
聴衆が下を向きがち顔を上げてもらいやすい (対話っぽくしやすい)
聴衆が自由に内容を先取り・戻って確認できる(迷子になりやすい)写されているスライドに集中できる(前後の確認がしづらい)

表1 ハンドアウト・レジュメとスライドの違い

以下、主に「迷子になる(発表者が発表しているところとは別のところに気を向けている)」という点についてポイントを書いていきます。

 なお、「迷子にな(れ)る」ことは紙の資料を使った発表の利点の一つなので、「絶対に迷子を出さない」のではなく、「迷子になりたくない人は迷子にしない」「迷子になった人でもすぐに合流できるようにする」ことを心がけています。

ハンドアウト・レジュメで発表する際の注意点

 私がふだんの発表で気をつけていることとして、

  • (意図せず)迷子になってしまうことの少ない資料作成を心がける

というものがあります。具体的には、

  • 資料を見る人の視線の移動をなるべく少なくする

という点に気をつけています。視線の移動が不必要に多いと、発表に取り残される可能性が増えると考えています。チェックポイントとしては下記のようなものがあります。

1) スペース(白紙の部分)を作って面積当りの情報量を多くし過ぎない

 ただし、学会の予稿集などだとページ数の制限があったりするので難しい面もあります。

2) 文や情報がページをまたがないようにする

 ひとかたまりの情報を追う際に視線を大きく移動させる作業が入り込むと、内容が追いづらくなるような気がします。一文がページをまたがないというのは当然として、表現としては切れていても、たとえば「データとその解説」のようなペアもできるだけ同じページに入れるようにします。

3) ページを戻る、ある部分を飛ばすということができるだけないようにする

 言語研究だと、たとえば同じ例文でもできるだけ再掲する、といった方が迷子が出にくい気がします。同様に、たとえばメインの資料と別紙の資料を行き来するようなこともできるだけ少なくします。

4) 節タイトル、図表などのキャプションをこまめに付ける

 後ほど述べますが、迷子になった際に戻ってくるきっかけにしやすいです。

5) ページ数を入れるのを忘れない

 4)に同じで、手がかりになります。

迷子になりにくい発表の工夫

 しかし、どうしても紙の資料を見ながら発表を追うには、ある程度の視線移動は避けられません。そこで、

  • 視線が移動するポイントでは少し間を空ける

ことにしています。たとえば

  1. 前ページの下から次ページの上へ移るとき
  2. ページをめくるとき

などがあります。資料が両面印刷の場合は、特に次のページを探す(次のページが裏面のどの箇所から始まるか探す)時間も必要だと考えて、やや長めに間を取ってもよいと思います。

迷子になった聴衆への案内を定期的に入れる

 それでも、迷子は絶対に出ます。というか、上に書いたように迷子になること自体は必ずしも悪いことではないので、発表の中で、定期的に復帰ポイントを作ります。たとえば以下のようなことを丁寧に言うだけでもよい道しるべになります。

  1. 「nページに行きます/移ります」
  2. 「n節に入ります」
  3. 「図/表nをご覧下さい」

 これは実は、発表者自身にとっても間を取るよいきっかけになります。発表中に沈黙によって間を取るというのは意外と慣れないと難しいと思いますが、こういう定型表現だともうちょっと楽にできます。早口の人、一本調子の話し方になりやすい人は特に使ってみて下さい。

その他、発表そのもののポイント

スライドを使用する場合でも紙の資料を配布すると助けになる場合がある。

 これは分野や発表の内容・テーマにもよると思いますが、一部の資料やデータだけでも配るとよいかもしれません。ただし、学会などだと追加の配布物は禁止されていたりすることもあります。

読み原稿は作るか?

 これは分野や学会にもよりますので一概にどの方法がよいのかというのは簡単には言えません。

 私は読み原稿は作らない派ですが、その人の性質にもよると考えています。たとえば、極度のあがり症というような人は読み原稿を作ってもよいのではないでしょうか。読み原稿を使うと一本調子の話し方になってしまうことはありますが、反面時間の調整はしやすかったりします。読み原稿を作る場合は間を空ける場所や発表内容以外の発言(自己紹介や「次のページに行きます」)なども原稿に入れておくとよいみたいです。

連絡先を書いておく

 発表の際の質疑応答、あるいはその後のおしゃべりでも話す機会がなかった人からも質問・コメントをもらえる可能性があります。

発表時間を守る

 私もちょこちょこ超過することがあるのであまり偉そうなことは言えないのですが…質疑応答・ディスカッションの時間を確保するという点でも大変重要です。

(ハンドアウト・レジュメを使用する場合でも)聴衆の様子を見ながら発表できるようになるのを目指す

 個人的に間を取る方法のおすすめの一つとして、「顔を上げて聴衆の様子を見る」というものがあります

 これをやると強制的に間が入ることになりますし、資料を見ている聴衆の何人かは顔を上げて発表者を見ていたりするので、けっこう面白いですよ。

 ちなみに私は顔を上げることができるかによって発表の調子をはかっています。緊張していたり焦っていたりすると意外とできないんですよね。「どこかで顔を上げる」と意識しておくことで、そういう自分の状態をモニターするきっかけにすることもできます(緊張の緩和につながります)。

おわりに

 いかがでしょうか。形式的なところばかり気にしても、というのはその通りなのですが、意外とばかにならないと思います。

 スライドを使った発表のノウハウや、実際の動画は検索すればたくさん見つかるのですが、紙の資料を使った発表については少ないなという印象があったので書いてみました。

 私の発表を知っている方、「これだけ気をつけててあの発表かよ」とは思っても言わないようにお願いします。

関連エントリ

2016-02-14

[]つくば市にある「友朋堂書店」閉店

 最近東京に引っ越しましたが、その前は17年近くつくばに住んでいましたし、引っ越した後も職場はつくばなので今でも関わりが深い街です。

 その間、つくばも刻々変わっていて、驚いた変化というのもこれまでにいくつかあったのですが、これは衝撃でした。

 博士号取得者がものすごく多い*1って言ってもそこまで研究者だらけってわけでもないしとか、街の書店は全国的に大変らしいとか、わかっていても「“研究学園都市”から(比較的)大きな書店が複数消える」というのはインパクトありますね。

 私も学部生の頃から、特に吾妻店には雑誌とか文庫とか文房具とかちょこちょこ買いに行ってお世話になってました。コンビニに売ってない文房具なんかを買う時にもけっこう便利だったんですが…

 大学の周囲にあった古本屋もいくつかなくなっていて、さみしいですね。一方で、最近の学生の経済状況を聞いていると、「学生なんだから本をどんどん買え」と言えるのかどうかというのもちょっと考えてしまいます。

 特別なエピソードとか、何か主張や提言があるというわけではないのですが、かなりショックだったので記録として書いておくことにしました。

2016-02-12

[]漢字と「ことばの正しさ」と国語教育についてちょっとだけ

はじめに

 下記の記事について、文字・表記はあまり専門ではないので(いつもの言い訳)誰かが詳しい説明を書いてくれたらいいなと思っていたのですが、やはり少し気になったので少しだけ書いておきます。理念的なお話が主です。

違和感と正しさ

 正確なところは文化庁から詳細な情報が出てみないと分かりませんが、

学校のテストなどでは、指導した字形以外の字形であっても、柔軟に評価するよう求めている。

新規サイト 共通エラーページ

ということがはっきり示されているのは(それが本当なら)、非常によいことだと思います*1

追記(2016/2/12)

 コメント欄で教えてもらったのですが、案は公開されていました。

かなり詳細なQ&Aも付いています。学校(のテスト)での取り扱いについても詳しく言及されていますね。

 以前、

言語学や日本語学の授業では必ず規範の話をすることにしている。その中の1つに、ことばの規範や「正しさ」というのは自動的にことばの方で決まっていることはなくて、(どこかで)誰かが決めているという話があるのだが、その「誰か」には国やメディアや専門家の他に「みんな」も入る。

三点リーダーの話とことばの規範性 - dlitの殴り書き

と書きました。これは文字・表記についても同じで、資料を調べていくと「ど(ちら)の使い方・書き方・表記法でも良い」となっているものに対して、どちらか一方でないとダメと思われている例はけっこう多いです。その一端を担っているのが教育だというのは、当たり前のように感じる人もいるかもしれませんが、実は怖い話だと思います。

 まだそれほど主張として固まっているわけではないのですが、私自身は「ことばに関する規範性は、人がある程度集まると自然に求め(られ)てしまう傾向があるので、寛容である方向に意識しておく方が生きやすい社会になるのではないか」と考えています。いやいやことばについては厳しい方がいいだろと思う人は、ことばの使い方について厳しさを求めることが必然である場面、ケースがどれぐらいあるか考えてみて下さい。評価方法の話など、実はその他のことで代替できるものではないでしょうか。

 自身が厳しく“躾け”られ、教育され、評価され、その評価によって人生に影響があったと感じている人にとって、その対象になったものが実はどっちでもよいと言われるのが嫌だという感覚はわかります。ですが、(もしこの方針がうまく反映されれば)次の世代が理不尽なことで評価されたりそれによって人生が左右されることがなくなる(かもしれない)ということを喜ぶわけにはいかないのでしょうか。

 あと、ついででよいので、違和感と「正しさ」は即つながるものでもないということも合わせて考えてもらえれば。

私は動詞「まなざす」への違和感、気持ち悪さそのものを否定しているのではないということです。(中略)ある語・表現が嫌いなら「嫌い」と言う・表明することもおかしなことではありません。しかし、「嫌い」「気持ち悪い」から「日本語としておかしい」「日本語ではない」と言ってしまうのは、ずいぶんな飛躍に感じます。

動詞「まなざす」は“日本語として”おかしいか - 思索の海

国語教育との関連

 国語教育の方でこれからこの指針がどのように受け止められそうなのか、という話は国語教育の専門家に任せるとして、ここでは次の本から重要な引用を一つ紹介して終わりにしたいと思います。国語教育以外にも面白い・重要な話が簡潔に紹介されていますので、日本語研究だけでなく、広く日本語にまつわる問題について興味のある方にはおすすめです。

 一方で、国語教育のような教育の世界では、学ぶべき内容として、さしあたっての「正解」が求められます。授業でいきなり「答えはないので自分で考えましょう」といっても混乱するだけなので、学習者にとって一番参考になるような、規範としての「正解」を示すわけです。

 しかし、残念ながら、本来は「混乱しないように、一つの指針として示す」ための「正解」が、絶対的に「正しい」答えとして流通してしまうことがあります。例えば、「漢字の書き順はこれが正しい」「国語辞典に載っていない使い方は正しくない」「擬音語はカタカナで書かなければならない」といった主張です。日本語は本来的に多様な姿をしているものなのに、「これが正しい」という暗記タイプの学習をしてしまうと、自分が覚えた答えから外れるものに出会ったとき、寛容な態度を取れなくなりやすいのかもしれません。

(茂木俊伸 (2015)「母語話者に教える」定延利之(編)『私たちの日本語研究ー問題のありかと研究のあり方ー』p.63、強調はdlit)

追記(2016/2/12)

 これもコメント欄で教えてもらいました。

概要:小中高200名の先生による漢字テストの採点のバラツキや基準の曖昧さに着目し、要因を解明する行動の取材記録。教育委員会、文化庁などの関係部門に基準はなく、入試基準か先生のこだわりなのか。様々な発見や矛盾を高校生が明らかにしていく。

追記(2016/2/12)

 さらについったーで教えてもらいました。

上記の追加情報なども含めて色々な情報がまとめられています。漢検にも触れられています。

追記(2016/03/31)

 その後に出たいくつかの関連情報へのリンクを置いておきます。

*1:漢字をはじめとした表記に関する他の様々な問題はまた別に考える必要があるとしても。

2016-01-26

[]動詞「まなざす」は“日本語として”おかしいか

【注意】このエントリは、動詞「まなざす」の意味・用法や登場した経緯や背景などについて解説したものではありません。

はじめに

 下記のまとめのブコメにも何か書こうかなと書いてそのままいつもの書く書く詐欺になりそうなところだったのですが、

その後もちょこちょこ「「まなざす」という動詞は日本語としておかしい」というような言い方を見たので何か書いておくことにしました。

 最後に背中を押したのは菊池誠氏の次の一連のツイートです。ただこれに似た言い方はいくつか見ましたし、共感を覚える方もけっこういるのではないでしょうか。

ちなみにwebである程度私と絡んだことがある方はけっこう知っていると思いますが、私は菊池氏の(放射線問題を含む)ニセ科学関連の活動を応援しています。

そういう応援している人から言葉についてこのような発言が出るというのは個人的に切なかったので(言葉について専門的に見ると変なことを言う人は研究者に限ってもけっこう見かけますので珍しいことではないのですが)、やはり書こうという気持ちになりました。このエントリが、菊池氏の上記のような発言に共感・賛同する方々にとっても何か考えるきっかけになると嬉しいです。

 ちなみに、私が考えていたことは、@xhioeさんの下記のツイートで端的にまとめられてしまいました。

これを読んでおおよその意味が分かる方は、ここから先を読まなくてもいいんではないかと思います。

「まなざし」はどんなタイプの語か

 さて、まず動詞「まなざす」の元になったと考えられる「まなざし」について見てみましょう。

 このように、動詞の連用形の前に何かがくっついた(複合)語はそのままでは動詞として用いることができないというのは広く見られる現象です。

  1. 名詞+動詞連用形:草刈り(×草刈る)、恩返し(×恩返す)、…
  2. 形容詞+動詞連用形:薄切り(×薄切る)、早歩き(×早歩く)、…
  3. 動詞+動詞連用形:立ち聞き(×立ち聞く)、殴り書き(×殴り書く*1)、…
  4. 接頭辞+動詞連用形:小走り(×小走る)、大崩れ(×大崩れる)、…

 面白いのは、日本語には似たような形でそのまま動詞として用いることができる複合動詞(例:飲み歩く、泣きわめく、…)が豊富にある一方で、3のようなタイプもあるというところですね。

 上記のツイートにもあるように、「まなざし」の「まな」は「目+の」なので厳密にはこれらのタイプとは異なりますが、「動詞連用形の前に何かがくっついてそのままでは動詞として用いることができない(複合)語」として見ると「まなざす」という形で直接動詞のように活用させるのが変だと感じる理由がこの辺りにあるのではないかということが見えてきます。

 「じゃあやっぱり「まなざす」って動詞は日本語しておかしいんじゃないか!」ってことになりそうですが、一方で、これらと同じタイプで動詞として用いることができる(そのまま活用させることができる)ものもそんなに珍しくはないようです*2

  • 名詞+動詞*3:腰掛ける、泡立つ、手間取る、旅立つ、名付ける、気遣う、芽吹く、目覚める、色あせる、手渡す、…

いかがでしょうか。他にもありますので探してみると面白いかもしれません。

 ちなみに、複合動詞は基本的に連濁(複合語の第二要素の最初の子音が濁音化する現象)を起こさないため、動詞+動詞で連濁が起きているものにも同じ疑いをかけることができるのですが、

  • 動詞+動詞:着膨れる、寝ぼける、行き止まる、立ち止まる、返り咲く、…(伊藤・杉岡 (2002)(下記)など)

語誌を見てみると古くは連濁を起こさない形だったものも多いようなので、最初に(動詞連用形をベースにした)名詞の形があってそこから動詞が形成されたというにはもっと詳しく調べる必要がありそうです。形容詞、接頭辞についてはうまい例を思いつきませんでした。

 「まな」が含まれる語としては他に「まなこ」「まなじり」などがありますが、連体助詞の「な」はそもそも分布が非常に限られていますので、他の語と比較して検証するというのは難しそうです。

 どこまでを「まなざし-まなざす」と同じタイプとするかによるのですが、ある程度の範囲を見ると、「まなざし」という名詞をベースに「まなざす」という動詞を作ることはそれほど奇妙なことではないのではないでしょうか。少なくとも「日本語としておかしい」という強い言い方をするには、ある程度の考察が必要だと考えます。

もうちょっと細かい話

 上で紹介した動詞連用形をベースにしたタイプの語については意外と研究が多くないのですが(みんな複合動詞好き過ぎなんだよ)

に「動詞由来複合語」という名称*4で色々な語が紹介されていますので、手に入る方は見てみると面白いかもしれません。

 ちなみに逆(形)成 (back formation)というのは、ある語の派生形(に見えるもの)が先にある場合に、そこから遡って“元の”語を作り出すようなことを指します(英語だと”baby-sitter”から動詞”baby-sit”ができたとか)。最近面白いなと思った例として、ダークソウルというゲームで、「篝火(かがりび)」を利用する行為を指して「かがる」と言っているのを見たことがあります。「かがり」が動詞連用形に見えるところからなんでしょうか。まあこういう用語には短縮形+「る」という構成も多いので逆形成と言い切ることはまだできないのですが。

 活用形との音の類似から新しい語が作られることも珍しくありません。「ググる」「トラブる」「ダブる」などの外来語をベースにした動詞や、「きれい」を形容詞タイプに活用した「きれかった」、「だいじょうぶ」を動詞タイプに活用した「だいじょばない」などが挙げられます。

まとめ

 さて、まとめると、「まなざし」を元にした動詞「まなざす」はある日本語の語の作り方のルールからは外れるが、それほど珍しいタイプでもなさそう、という辺りに落ち着くのではないでしょうか。つまり、違和感を持つ人が多いのは不思議ではない、でもこれを「日本語としておかしい」とするなら、他にも候補が色々出てきてしまう、ということです。

 こういうことは言葉の問題では珍しくありません。以前も似たような問題について書いたことがあります。

 ここで強調しておきたいことは、私は動詞「まなざす」への違和感、気持ち悪さそのものを否定しているのではないということです。そうではなくて、「まなざす」が指している内容や、使われ方や、使っている人へのネガティブな印象を「まなざす」というちょっと変わった語そのものの性質の問題にすり替えて(混同して)いないでしょうか。ある語・表現が嫌いなら「嫌い」と言う・表明することもおかしなことではありません。しかし、「嫌い」「気持ち悪い」から「日本語としておかしい」「日本語ではない」と言ってしまうのは、ずいぶんな飛躍に感じます。

 さらについでに言うと、こういう「日本語(として)」という場合の「日本語」とは何を(どこまでを)指しているのか、についても少し考えてもらえると日本語・言語の研究者としては嬉しいです。

おわりに

 なんでこんなことをしつこく書いたかというと、言葉の規範性について自覚的な人が増えてほしい、他の専門分野(学術的なものに限りません)について寛容な人が増えてほしい、という個人的な思いがあります*5。後者については@ssmuflerさんの下記のツイートに賛同します。

 前者についてはここでも色々書いていますが、はてなブログの方でも次のようなエントリを書きました。

規範は重要なことも多いのですが、付き合い方が難しいんですよね。あまり他者に厳しくない方が個人的には生きやすいんだと思うのですが、いかがでしょうか。

 身近な専門分野がある方は、ぜひ日常用語と同じ字面をしているのに、独特の意味・用法で用いられているものがないかどうか探してみて下さい。

*1:「書き殴る」は複合動詞でそのまま活用できるんですよね。面白いですよね。

*2:ただし、詳しく分析するとこれらの語の性質や成立の経緯も同様ではない可能性があります。

*3:一部、日本語文法学会第16会大会シンポジウム「関連領域から照射した現代語文法」の影山太郎氏の発表で示された例を用いています。

*4:個人的にはあまりこの用語は使いたくないのですが…ちなみに西尾寅弥 (1961)「動詞連用形の名詞化に関する一考察」『国語学』43: 60-81. では連用形名詞の一タイプと分類されています。

*5:実は言語の専門的な研究者にも規範にかなり厳しい人というのはいます。

2016-01-11

[]このブログを開設して10周年

はじめに

 2006年1月9日にこのブログ最初の記事を書いていたようなので、とうとう10周年を迎えてしまいました。

 ちなみにプロフィールを見たらこの記事の前までに694日分記事を書いてたようです。1日に2エントリ以上書くことはほとんどないので、平均すると1年当たり70エントリぐらい書いてるということでしょうか。なんか体感より多いんですが、たぶん最初の方は頻繁に更新してたからですね。

 もともとだらだら続ける気ではあったのですが、意外と長続きしていて驚いています。

ブログを書き始めてから

 そもそもはフリースタイルフットボールのために始めたんでした。いやあ懐かしい。

 院生のD2の終わり頃に始めて、博士論文の提出、(非常勤)研究員、専業非常勤講師時代を経て専任職、さらに最近テニュアトラック審査通過というところまで来ましたので、振り返ってみるとこの10年でホント色んなことがあったなあという気がします。こういう私生活面についてはここではそこまで詳しく書いてないですけどね。

 自分の専門分野について書くことについては院生時代から意識してやっていましたが、最近肩書きの方が世間一般からはより「専門家」として見られるものになってきましたので、さらに緊張感が出てきました。

 あと、ついったーのアカウントを2007年10月に取ってるんですが、頻繁に使うようになってから、かえってブログの方に書きたいことが色々あるというのをかなり強く意識するようになりました。

なぜブログを書き続けているか

 ネタ系のやつや雑記については単に思いついちゃって書きたいから書いてるって感じですが、専門分野に関することについては、私自身多くのブログ・webサイトのお世話になりましたので、大仰に言えば恩返しというか、互助的な感覚で書いているところもあります。ただブログを始めた当初と違って言語学・日本語学に関するweb上での情報もだいぶ増えたなという印象がありまして、「自分が書かなきゃ」みたいな感覚はほとんどないですね。

 やはり、自分の専門について多くの人に知って欲しいというのが大きなモチベーションとしてあるのですが、「自分の専門分野で広く知られた方が良いだろうこと」も意識していますので、結果として社会言語学寄りの話が多くなってしまいます。ド専門の話はかえって書きづらいみたいなところもあるのですが。

 少し前までは(ニセ)科学関係の話と言語学・日本語学関係の話を同じブログに書くことで、どちらかに興味を持っている人が 読みに来てくれてもう一方にも触れてくれると嬉しいななんてことを考えていたのですが、(ニセ)科学関連の話はネタ切れ+書くための時間(主に情報収集)が取れないということもあり、最近はほとんど書かなくなってしまいました。

 あと、研究上のものを中心に、ブログを書くことを通して多くの素敵な出会いがあったというのも続ける動機として大きいです。最初はブログを介してwebで知り合い、その後実際に会うことになった人もかなり増えました。この出会いの多くは ブログを書いていなかったら得られなかったもののような気がします。続けていると色々大変なことやつらいこともありますが、総合的に見るとやっぱりやって良かったなと思います。

転機になった記事(宣伝)

 やはり以下の2つのシリーズを書いたことは大きかった気がします。

せっかくなので未読の方は少しだけでもどうぞ。水伝の方の最初のエントリは書き直したいなあと思いつつ結局そのままです。

 あと転機になったというわけでもないのですが、

をはじめとする、「カテゴリー・属性でくくること」も気になるテーマで、こっそり書き連ねています。

文章表現への影響

 ブログでは文体や表現を意図的に変えて書いています。硬軟を調整するだけでなく、全体を統一することもあれば、途中で文体を変えてみたりあるいは推敲を一切せずに気の赴くままに適当に書いてみたり。良い実験場になっています。

 単純な比較はできないかと思うのですが、ブログを書く方が論文を書くより難しいんではないかと感じることもしばしばです。

これからどうするか

 好きなブログは色々あるのですが、専門分野に関する情報発信としては、特にid:optical_frogさんとid:shorebirdさんのお二人が理想だなあと思ってきました。ただ自分ではなかなか真似できないなというのも痛感していまして、自分自身はたぶん今とあまり変わらないスタンスで続けていくのだと思います。あとid:NATROMさん、id:ublftboさん、id:next49さんにも以前からああいう風に書けたらなあと思わされることが多いのですが、これもなかなか真似できませんね。

 結局は、今のペースをそれほど変更せず、のんびり続けられるのが一番かと思います。何回か書いた気がするのですが、「webに情報・記録を残しておく」場所としてブログを使っている、という感じですし。

謝辞?

 最後に、webでお世話になっている人はたくさんいますし、通りすがりの方々にも寄っていただいただけでありがたいのですが、特にid:killhiguchiさんとid:rosechildさんに感謝の気持ちを表明しておきたいと思います。お二人とも、こんな適当な私に長年付き合ってくださってありがとうございます*1

 今後何を書くことになるのか、どういう出会いがあるのか、楽しみです。

記念エントリ

 予定していた1つは以下に書きました。

もう一つはラーメンズで言語学の第2弾にする予定で、このまま問題が発生しなければそのうち上げますね。

*1:他にも実は長らく読んで下さっている方がいるのではないかと勝手に思っています。ありがとうございます。