保守論壇改造論ー大衆は愚かではない。知識人・文化人こそ愚かである。大衆は愚かだという大衆衆愚論などを一部の転向保守やその子分どもが、声高に叫びはじめた時、日本の保守論壇の堕落と崩壊は始まった。「国民は黙って事変に処した」と元祖・保守思想家とも言うべき小林秀雄は言ったし、戦後も江藤淳のような保守思想家は、戦後派知識人の観念論的大衆衆愚論を批判しつつ、生活者、治者としての大衆の現実主義を擁護した。オルテガの「大衆への反逆」は、大衆の登場への恐怖感と不安感の「表白」にすぎない。大衆を畏れよ。今こそ、あるがままの
絶対的少数派ではあっても、健全な保守論壇がある限り、政治も経済も健全であったように思われる。保守論壇が幼稚になり、まともな保守思想家が一人もいなるにしたがって、次第に政治も経済も堕落し始めたように見える。何故、保守論壇は幼稚になり堕落したのか。その原因の一つに「大衆衆愚論」がある。ニーチェやキルケゴールを持ち出すまでもなく、大衆批判というものは、ポストモダン的とも言うべき現代に会って流行思想そのものである。とてもニーチェやキルケゴールとは縁もゆかりもなさそうな連中に限って、ニーチェやキルケゴールが狂気じみた才能の持ち主であることを忘れたかのように、やれニーチェだ、やれキルケゴールだと語りたがる。むろん、彼らはニーチェでもキルケゴールでもない。彼等こそ、ニーチェやキルケゴールのいう大衆そのものというしかない。小林秀雄も吉本隆明も三島由紀夫も、そして江藤淳も、それが分かっていた。彼らは大衆を軽蔑したり、嫌悪したことはない。彼らが嫌悪し、軽蔑したのは、大衆を軽蔑している知識人であり文化人だった。
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