文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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「ネット右翼」のパラドックス。ー「ネット右翼亡国論」序説ー

dokuhebiniki2015-08-19


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ネット右翼」という言葉とその存在は、否定的、侮蔑的な意味で使われるのが普通であろう。しかし、私は、この「ネット右翼」という言葉を、否定的な意味でのみ使用しない。 むろん、私も、ネット右翼の無知と暴走には否定的、批判的だが、ネット右翼の果たした積極的役割にも注目する。たとえば、「ネット右翼」が、「大衆の原像」(吉本隆明)的な見地からの「マスコミ批判」や「文化人=知識人批判」で果たした役割は決して小さくない。たとえば、極めて評判の悪い「在特会」やその中心人物である櫻井誠らのヘイトスピーチ的言動には批判的だが、しかし全否定するわけではない。彼等の中の一人が、「これは既得権益層との階級闘争だ」という言葉に、私は、深く共感する。その延長で、私は、安田某の『ネットと愛国』における「櫻井誠批判」に否定的だ。その家庭環境や生い立ちなどを根拠にした侮蔑的な批判・罵倒の文章に怒りを感じる。安田某の「都会のインテリ気取り」的見地からの、上から目線の批判こそ、思想的な「無知と無能」を曝け出していると思う。その意味では、櫻井誠の言動の方が、安田某のそれより、はるかに思想性が高い。ハイデッガーの『森の道』の「農夫」の話を思い出す。田舎の森の農夫は、言葉で説明できないが、「森」についてなんでも知っている。都会から来たインテリは、「森」を調査し、分析することは出来ても、本質的に「森」を知ることは出来ない。農夫は、「森」について、それが何であるかを考えるまでもなく、本能的に知っている。この農夫の「知」は、都会人の「分析的知」をはるかに超えている。ベルグソン が言う「直観的知」と「分析的知」の落差である。近代主義、ないしは西欧近代合理主義の思考とは、この分析的知を絶対化し、ベルグソン的な直観的知を軽視、ないしは廃除する思考である。言い換えると、「ネット右翼」的な思考には、悪しき近代合理主義的な思考とベルグソン的な直観的な思考が共存しているように見える。(続く)





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