野口英世

日本の¥1000札の肖像画 野口英世のことについて 子供の頃から伝記 映画などで漠然と知っていたがそれ以上の関心は無かった ここで志賀 北里 秦ら日本の高名な細菌学者の動向は次々登場してくるのに、一人最も有名な野口英世の名前だけはいくら探しても見つからない。

偶然作家の 渡邊淳一氏が 医学を志す同輩の心情で野口英世の事を書いている本を見つけた ”遠き落日”

氏は 恋愛小説家で ジャンルが違うんじゃ無いかと思ったが 読みかけたら一気に読んでしまった
少年時代の伝記とは似つかわしくなく 人間英世の人生が描かれている 

 貧困と不具 この二つは野口英世の伝記の背表紙の向こう側にいつもうずくまっていた。
野口英世の半生はこの二つからの脱出の苦闘だった、天賦の才能と狂人的な努力によってのみ、脱出は可能だったのだ、そして又不具はともかくとして、貧困からの脱出は、当時の日本人の大部分の願望であった。

渡邊淳一が 昭和46年に構想を立て、以来アメリカ メキシコ アフリカと取材の旅を続け、雑誌に連載を始めて
完成まで8年の歳月を費やした大作である。
野口英世は学者として天才であったろうが、それ以上に 生きる事の天才であったと思う、
医学書生となって開業試験を受ける清作、高山歯科医学部の教師としての清作、当時大学の医学部を卒業しないと
医者として認められない状態であったが ラッキーにも恵まれて医者としての一歩を踏み出したが生活は豊かでは無かった、その頃本名は清作だったが 野放図な生き様も天才的だと言えるかもしれない。

清作は自分が小柄なせいか、大柄な女が好きだったが、やや大きめであれば誰でもいい 極端にいえば女であれば
良かった。当時東京の遊郭 吉原 洲崎 はじめ店の女も、次々替えて移り歩く、一人の女への愛着などより
女そのものへの好奇心が先走る、有り余るエネルギーを叩きつけられる相手であればそれで良かった。
これは単なる好色とも違う、ただ狂ったように女を抱き歩く。検察医であった 女好きの友人もさすがに清作の
このスタミナには付き合いかねたらしい。

浪費家 野口英世 借金王であった 金の借り方に、壮絶という形容はおかしいかも知れないが、清作の借り方は、まさに壮絶としか言いようが無い、それは又金の借り方ではなく、また使い方においても、壮絶としか言いようが無い、渡邊淳一はその英世の壮絶さを、彼が残した手紙を軸にして、綿密に追い続けている。

従来の英世の伝記作家が、気づかなかったか、あるいは故意に避けてきたこの面にスポットライトを当てた
旧い立身出世型の偉人伝からは予想もできない、この浪費と借金魔と女狂い、読み進むうちに感動を覚えた。

アメリカに渡り、縁あってロックフェラー財団及び大学で生活の糧を得て 結婚をするが世俗的な意味で、幸福な家庭をもつことは出来なかった。その妻メリーとの夫婦生活もまた、生き急ぐ者にふさわしい、それだけに、なお
一層英世がアフリカから妻に送った手紙が心をうつ。

「 日本に凱旋帰国したとき盛大な迎えを受け、又全国各地での歓迎であったが 妻メリーは同道しなかった。」

”それから必ず手紙を下さい、手紙は時間がかかるから電文にして下さい、あなたの電文だけが私の心の支えです、
もう5時を過ぎ鶏の声が聞こえてきました、夜通し仕事をして疲れたので今日はこれでやめます。手紙を待っています、愛するメリーへ、あなたのヒディ”

 英世は半月に一度は、このような手紙をメリーに送り、どの手紙にも返事をほしいと訴えた、だがメリーがアフリカの英世に手紙を出したのはわずか3回だった、それも「元気でいます・・・・」素っ気無いものだった。

 英世はその生涯におびただしい手紙を書いている。前半生では借金依頼の手紙、実に小まめにお願いしている
借金の天才、破廉恥なことも無視している、後半生は自分の研究成果を自慢する手紙、特定の友人にあてたぶんだけでも、渡米後の15年間に200通も24時間人間と呼ばれる多忙のさなかにである、

「もっと私を理解してくれ、私は孤独だ、私は貧乏人の子で、手ん棒だった」
  周囲からみれば極めて迷惑至極な、自尊心の高い、野心に満ちた男の孤独感は、理解しにくいものであったろう

 英世のアフリカ行きを、自殺とみる説があることを この作品で知った。
    ガーナのアクラで 自身の研究目的である黄熱病(イエローフィヴァー)で鬼籍に入る。