寸感/はやぶさ、闘病テレビドラマ

はやぶさ
 北朝鮮のミサイル騒動で、人々の関心が宇宙に注がれた、という機会に、はやぶさ 関連の本を手にしてみた。
 はやぶさ は、いとかわ探査の使命を果たした後、数々の難関を突破して無事地球に生還し、未知の物質を持ち帰って宇宙研究に大きな成果を齎す、という快挙を成し遂げた。
 ほかに「二位じゃ駄目なのか」という課題にも正面から立ち向かうという大きな問題にも直面して、結果として国民の宇宙に関する関心を大いに高めたのは一方の偉大な成果でもある。


 関連本(「小惑星探査機はやぶさ」、「はやぶさ式思考法」、共に開発責任者/川口潤一郎 著)を読むと、はやぶさ はいろいろな幸運に恵まれたとはいえ、決して単なる宇宙冒険に類する実験機ではなかったことが分る。エンジン開発、軌道計算、「いとかわ」の物質収拾装置、カプセル回収方法、等々、詳しくは報道されなかったが、いくつかの世界初の試みがなされていたことが興味深い。
 それ以上に心打たれるのは、行方不明となった はやぶさ を苦心の末に再発見し、エンジントラブル等を克服しつつ機体を生還へと導いた川口氏以下スタッフの不屈の執念と諦めない心である。
 それが見事に報いられて、地球上空に再び元気な姿を現し、本体は燃え尽きつつもカプセルを無事地上に帰投させるという、何度見ても涙を誘うような感動のシーン。
 川口氏によると、単なる物体に過ぎない探査機に対して、開発関係者全員がこの「奇跡の生還」に関しては「ねぎらい」の気持を持った、とされる。
 打ち上げから生還への一連の行動に関しても、「制御」よりも「しつけ」という言葉を用いていた。
 抑制された文面ではあるが、あの壮烈な燃え尽き場面については、恐らく心中こみ上げるものをお感じになられたことだろう。
 巻末の言葉を引用してみよう。
 ---- はやぶさ そうまでして君は帰ってきてくれて、そしてそうであればこそ、この成果が得られた。そう感じざるを得ません。はやぶさ、ごくろうさま。おめでとう。そしてありがとう。


はやぶさ式思考法」では、「原点法よりも加点法」「許認可は妨げに」「教科書には過去しか書いてない」「失敗するチャンスを与えよう」などなど、意味深い見出しが並んでいる。
 開発の邪魔になるのは、むしろ技術者そのものである場合がある、と言われることがある。衝撃と反省の書である。
 常に失敗と隣り合わせで努力してきた開発責任者の言葉だけに重みがある。
 もし、はやぶさ が失敗に帰したらどうなっていただろうか。
 その後の宇宙開発計画は大きな打撃を受けたであろうし、予算の無駄使いとして国民の非難を受けたかもしれない。
 はやぶさ が川口氏以下関係者の しつけをよく守り、自らも努力(したかのように)して地球に立ち戻ってきたことを喜びたいと思う。
 川口氏にとっての はやぶさ は、我が子以上のかけがえのない存在であるのだろう。


● 闘病テレビドラマの真実
 4月21日夜、NHKドラマ「あっこと僕らが生きた夏」を見た。
 実話か創作かは分らないが、高校野球部の女子マネージャが病(癌)を得て、部員仲間との交情に心を残しつつ無念にも世を去る、という物語である。
 高校生という若さで世を後にしなくてはならない、という悲しさは確かにある。しかし、年齢、境遇に拘らず、死という厳粛な事実が訪れ感動を齎す、という現実がある。
 若い身空では、さぞかしやり残したことも多く、無念の思いもひとしおだったことと思われるのだが、人間はそんなに多くのことに心をかけることは実は難しいのではないかという感じがある。
 むしろ、執着出来るものが一つでもあれば、それで満足して生を終えることが出来るのではないか、とも言われているくらいだ。
 この世にやり残したものは一つもなく、それで得心して成仏できる、というのは実は私には分りにくい世界である。


 この主人公の場合は、甲子園出場を悲願とする野球部への思いが最後まで彼女の心を占めていた。部員たちもよく彼女の心に応え、そして暖かく彼女を見守る家族、教師、監督、医師たち。
 最後の場面で、筆談で「ありがとう」という文字を書き残し、無言でいる彼女の目から涙が流れ落ちるシーンがあるのだが、ひときわ感動させられるものがあった。
 そして一枚の写真に納まってしまった彼女は、父親に抱かれて、野球部員たちに別れを告げる。
 元気で部員たちに激を飛ばしていた彼女の肉体は失われ、写真に納まってしまうというのは、頭では理解出来ても、どうにも納得出来ない不思議な気持である。
 若い部員たちは、彼女の思い出とともに、これから先の数十年の人生を迎えることになる。
 老境に達した彼らは、若き日々をどのように思い起こすのだろうか。


 このドラマは、特に死という人生最大の課題を前にした医師と彼女との対話が一つの焦点となっている。
 医師は既に高校生となった彼女を一人の人間として扱い、病状を正確に言葉を飾らずに説明(告知)して聞かせる。誠実で事実をありのままに伝える姿には真実味があり、ドラマの域を超えているように感じられた。この医師もまた闘っているのだ。
 特に、癌が再発した時、「再発」という意味の重大さを言葉を選びながら、それでもはっきりと説明するのだが、それでも、彼女からの、
 ---- 私はあとどれくらい生きられるのか?


 という問いには流石に答えられなかった。(あとで親には説明していたが)。
 私はこれまでいろいろな闘病テレビドラマを見る機会があったが、今回のドラマは、特に告知の場面で真実を伝えるものとしては誠実なものがあったように思う。
 私の乏しい経験だが、印象に残るある医師の振る舞いはこうだった。
 ----- 他の診療科からの転移の疑いのある患者を診察することになったその医師は、驚くべきことに、
◇ 最初の原発部位の治療に当った主治医の不手際で転移が起こり、自分が診察する羽目になったことを迷惑に思っているようだった。従って、なるべく早くこの件を片付けて患者を初めの診療科に差し戻したいという気持がありありと見えた。
◇ 診察の結果、実際に転移は事実だったのだが、その医師はまるで探し物が見付かったかのような軽い態度でその事実(恐ろしいことだ)を告げ、一応の手当ての後に最初の診療科に戻ることになる、と事務的に説明する。
 そこには、医師自身の心の葛藤などは全く見られず、むしろ告知することで、心の負担を軽くしてしまうような態度だった。


 これは極端な話で、すべての医療スタッフがそうだ、などとは信じてはいない。医師はあくまで聖職である(でなければならない)、と思っている。しかし、多くの医師のなかには「普通の人」もいるかもしれない、という話なのであろう。


 「誠実」でない?ドラマは、恐らく意図的には製作されていない筈だとは思うが、結果的に「作り物」としか思えない作品はある。
 視聴者の感動を呼ぼう、という制作者の努力/熱意は多とするが、その意図に反して世間の誤解を招くようなことになってはいけないと思う。
 どうしたら真実味のあるドラマに迫れるのか。
 冗談のようではあるが、企画者、脚本家、製作者等が、実際に癌病棟に(体験)入院してみることではないか。
 実際にはそういうことは出来ないかもしれないが、そういう気持/体験に一歩近づいてみることは大切だと思われる。(医療スタッフでも実際に病気入院した経験のあるなしは、後日、実務の上で大きな意味を持つものだと思われるのだが)。


 実情から少し遠いのではないかと思われたテレビドラマに(記憶が少し曖昧だが)こういう内容の作品があった。
◇ 医療系の人と思われる人が、診察(レントゲン検査)を受けた本人とその同僚の前で、フイルムに何か陰があると説明している。しかし、その場所は病院診察室ではなく、普通の職場の面会室らしいところが、そして、診察内容と関係のない第三者(同僚)が同席していることがまず不自然である。
 何か怪しいぞ、という噂は瞬く間に職場に広まり、本人は(確認の精密検査も受けずに)しょげ込む。------ こんなことって現実にあるのだろうか。
 そして、ある時、同僚が本人に向かって「どうせ死ぬんでしょう」と口走るのだが、こんな場面がある筈はなかろう。
 そして、本人は(どうせ死ぬんだから)とカラ元気を出して仕事に精を出す。
 黒澤明監督の名作「生きる」の主人公とは大分様子が違う。つまり作り物だ。
 そして「誤診」だったことが医師からではんく、同僚から聞かされて本人は元気付くというのだが、これでは本当に困ったものですね。
 本人の失意、そして誤診で元気になる、というところに、一つの盛り上がりを期待したのかもしれないが。
 やはり脚本家は一度体験入院して貰う必要があるのではなかろうか。
「あっこと僕らが生きた夏」は素晴しい作品だったと思う。