≪Fränkische Schweiz補遺≫

 今まで書き続けてきた1984年のニュルンベルク滞在日誌からいったん離れて、ここでは別のテーマについて書く。そのあと、再び滞在日誌に戻ろうと思う。

 フレンキッシェ・シュヴァイツ (Fränkische Schweiz) は、「フランケン地方のスイス」という意味で、エアランゲン、バンベルクバイロイトを結ぶ逆三角形の間に広がる緑の美しい高原地帯を言い、小さな町が点在している。フレンキッシェ・シュヴァイツは、標高は300〜600mであるが、石灰岩から成るカルスト地形特有の切り立った崖が多く見られ、その起伏に富んだ美しい地形がスイスにたとえられている。
 最初の旅行者が風光明媚な当地へやってきたのは、ロマン主義の時代であった。「この地のスイス風の美しい自然の景観の最初の発見者」は、当時エアランゲンで法律を学んでいたベルリン出身の二人の学生、ルードヴィッヒ・ティークとヴィルヘルム・ハインリヒ・ヴァッケンローダーであるとみなされている。1793年二人の紀行文を読んで、同時代の人々は絶賛したといわれる。ロマン派時代の文学者、詩人たちを熱狂させたばかりでなく、19世紀にはリヒャルト・ワーグナーもこの地に数多く残る古城のたたずまいに心を惹かれ、自作のオペラ『パルジファル』で「聖杯城」のモデルとしている。フレンキシェ・シュヴァイツは「ドイツ魂の隠れ家」と讃えらている。 Die ersten Reisenden kamen zur Zeit der Romantik. Als „Entdecker“ gelten die beiden aus Berlin stammenden Studenten Ludwig Tieck und Wilhelm Heinrich Wackenroder, die in Erlangen Jura studierten. Mit ihrem Bericht aus dem Jahr 1793 begeisterten sie ihre Zeitgenossen. Die Formulierung „Fränkische Schweiz“ taucht erstmals im Reisebericht Meine neueste Reise zu Wasser und Land oder ein Bruchstück aus der Geschichte meines Lebens (1807) des Erlanger Gelehrten Johann Christian Fick auf. Fick verwendet die Benennung auch in seiner Historisch-topographisch-statistischen Beschreibung von Erlangen und dessen Gegend (1812).
„Fränkische Schweiz“(フランケン地方のスイス)と最初に命名したのは、エアランゲンの学者ヨーハン・クリスチャン・フィックが、その旅行記『わが最新の水陸紀行』(わが人生の歴史の一断片)』(1807年)の中においてである。彼はエアランゲンとその周辺地域に関する歴史・地誌的著作(1812年)の中でもその呼称を用いている。
 前にもブログに書いたが、ルートヴィヒ・ティークLudwig Tieck(1773-1853)は、ベルリン生まれの都会人であるが、エアランゲン大学在学中に無二の友人であるヴァッケンローダーとフランケン地方の山中を歩き回り、山地のもつ非日常の怪異と恐怖を発見したといわれる。山地と森の不可思議な世界は彼の創作童話『金髪のエックベルト』に表現されているが、昔話(Volksmärchen)の素朴なモラルを全面的に否定したといわれる近代的なメールヒェン(Kunstmärchen)を生み出すにあたってティークは、山と森からどのような霊感を受け取ったのであろうか。『金髪のエックベルト』に関しては、すでに論じたことがあるが、いつかまた新しい視点から論じてみたいと思っている。



  







(ここに掲げた3枚の写真は、いずれもFränkische Schweizの風景である。1984年6月3日、親しくしていた近所のドイツ人ご夫妻とドライブした際に撮影したものである。)