カフカの『城』とは何か・・・『城』を求めての果てしなき旅(続稿)

 ヴィーゼの研究は、父親の論理の世界、つまり父権的世界から失墜した破滅
者が女性的な融和の楽園を求め、そこに希望を見出していくことをフェミニズム的な観点から説明するものであるが、ヴィーゼの説く「女性的な中心」としての反ー父権神話的楽園という発想は、もちろんフェミニズムの流れに強く影響された拡大解釈的な限界があることは否定できない。
 
 ライナー・シュタッハは、さらに一歩進めて「女性」がフカ文学に君臨する知られざる主人公であることを論証してゆく。たとえば「解読の実例ーー廷丁の妻」の章では、廷丁の妻を被告人に同情する保護者かつエロティックな妨害者として捉え、エロスを媒介として裁判所の関係者と癒着する彼女の態度が性的隷属者として完全に「受け身」であるように見えながら、逆に「積極性」そのものであるという二義性や、「それが罪であるのかどうか誰にも分らない」という言動の非論理性、非連続性から、確固たる自我や明確な個性を持たない「非人格」で無定形な存在である女性像を指摘する。シュタッハの分析は、当時ヨーロッパに浸透していたオットー・ヴァイニンガーの性の理論に類似している。ヴァイニンガーの理論の要点は、自我と個性を特徴とする男性に比べ、女性はそれらを持たない「無」に他ならず、個別者の概念、真実、道徳、因果律、秩序、自由などの概念が欠如しているがゆえに、自他に対して論理的な洞察をすることもなく、罪悪感や克己というものとも本質的に無関係である劣等な性であるという主張にある。ヴァイニンガーによれば、女性の唯一積極的な行動原理とはエロスであり、また、それを通じて男性的な個を混合、解消させ、最終的に「無」へと陥れるという女性の存在性を最もよく体現するものこそ、母親と娼婦なのである。ヴァイニンガー的な女性イメージが最も特徴的に投影されているカフカ作品の女性像としてシュタッハが挙げているのは、廷丁の妻レーニ、フリーダ、ヨハンナのような娼婦的な誘惑者たちである。
 シュタッハが作品の分析から導き出した「女性」とは、本来の意味での自我をもたず、肉体性にのみ基づく動物的な存在形式、いわばエロス、死、自然といったイメージを喚起する「超個性的」な存在、理解も把握もなしえない茫漠たる無定形であり、その点にこそ主人公たる男性の自我にとって最大の脅威となる「女性」の本質が顔をのぞかせている。シュタッハは、カフカにとって女性が絶えず救済への希望の担い手であった反面、理解を超えた存在として不安と恐怖の対象であったことを洞察している。
 男性的自我や男性的合理的思考の彼岸にある無定形という存在形式のゆえに、女性は裁判所や城と関連したあらゆる領域に通じる別存在であるという点にこそ、一見して「非力」と「欠如」を特徴とする女性の性質は、一転して優れた能力と利点へと変換し、いまや「女性」は裁判所や城への理想的な仲介者へと変貌するのである。裁判所や城といった役所組織への接近は、エロス的な存在である女性の機能(とりわけ性的なVerkehr)を通して行われるのに見合うがごとく、役所は組織としても曖昧で、細部に関しても全体像に関しても何ら明確な映像を与えることはない。
 シュタッハによれば、女性とは、合理性に貫かれた男性の知識や判断の限界を映し出す鏡であり、それゆえ男性の罪を暴露し有罪判決を下す裁判官でもある。(カフカ的な「神話」の文脈の中で考えれば、このことはカフカが手紙の中でフェリーツェを「僕の人間法廷」と呼んだ事実に符合する。)しかしながら、カフカの女性観がヴァイニンガーの理論と酷似しているようでありながら、カフカにとって「女性」は希望の担い手であり源であると同時に、常に不安と畏怖の対象でもあるという両義的な側面を持っていたことをシュタッハは指摘する。
 本稿で取り上げた論考『カフカの文学と「女性」』では、最後にフェリーツェやミレナに宛てた手紙における女性像を論じたエリザベス・ボアの論文に言及しているが、手紙を中心にした作家論・テクスト論は筆者の好みのテーマではないので、ここでは簡単に触れておく。すでに述べたことだが、フエリーツェとの婚約にあたってカフカは、彼女に家庭内での実際的な妻(日々の生活を共にする生身の妻)の役割は望まず、いわば「非在」の花嫁、テクスト中でのみ存在する虚構の妻こそが、彼の渇望の対象、すなわち日常生活と文学の仕事との矛盾・軋轢を埋め合わせてくれる存在であった。ミレナ宛の手紙に関していえば、ボアは、ミレナをめぐってカフカと彼女の夫エルンスト・ポラックがライバル関係にあった事実に立脚し、カフカが手紙に記した「信頼に足る、理性的かつ沈着、しかし、過度に家長的である」というポラックの印象や、「夢うつつで、頭を背もたれにもたせかけ、時々電話で話すために飛び起きる」というカフェでの彼のエピソードが、ポラックに対するカフカの敵対視を孕みつつ、Kの恋敵、クラム像へと転移されていると主張するばかりか、「性的な能力と父の威厳をそなえた」ポラックと、ミレナを奪い合うことへのカフカの妄想と欲望こそが、「父権システムにおいて男性間でなされる女性の交換という『城』のエロティックな構造」に投影されていることを示すのである。
 作家カフカが取り組んだ相手が専らに「女性」であり続けたという前提のもとに、これを不動の事実として「女性」であることのさまざまな視点から考察を行なった本研究は、筆者にとってある意味でたいへん興味深いものであった。
しかしながら、この力作研究もミラン・クンデラが言うところの(無数の)「カフカ学」の一つであることに変わりはない。
 カフカと女性というテーマで、さらに生々しい関係(とりわけミレナとの関係)を扱った研究として、筆者の眼を惹いた研究を参考までに挙げておく。
 佐々木博康著「カフカとミレナの関わり ------ ウイーンの森とグミュントで起こったこと------」(大分大学教育福祉科学部 研究紀要第36巻第2号所収)