俺フェチ (1) (ドラゴンコミックス)/俺フェチ (2) (ドラゴンコミックス)

俺フェチ (1) (ドラゴンコミックス)

俺フェチ (1) (ドラゴンコミックス)

俺フェチ (2) (ドラゴンコミックス)

俺フェチ (2) (ドラゴンコミックス)

買うんじゃなかった。
何もかもが中途半端。どちらかというと突っ走っているが、それが面白い方向に行ってない。
4コマに行って正解な感じ。

りぜるまいん (Kadokawa comics A extra)

りぜるまいん (Kadokawa comics A extra)

りぜるまいん (Kadokawa comics A extra)

あーもーベタな展開で鋳型から作った感じがしてもういいや。
しかも設定をきちんと説明してないし。プロトマンカインドって、言葉の意味はわかるがそれが何を示しているのかもさっぱりわからん。これはつまり漫画だけじゃなくてエロゲーもやれと言う命令電波か。他の国が作ったプロトマンカインドがストーリー上何の役にも立ってないあたりマジでもうどうにも。

新万能文化猫娘 (誕生編) (角川コミックス・エース・エクストラ)

誕生編と言いつつ続きが出た様子がないのがとても素敵であります。
まー、どうでもいいです。高田裕三が猫で萌えでイヤボーンを描くとこうなると。なんだか、3×3(サザン)EYESで大事なものは全部使ってしまった後の出がらしのお茶を飲んでいるような気がします。
唯一共感できるのは、寿司はトロやらハマチやらの脂身食ってナンボと言う点ですか。回る寿司なんだから好きなもん食わせろやゴルァ!

マージョリーノエルがやってきた (DAYAN’S COLLECTION BOOKS)

こうやって改めて並べて見ると、ダヤンとジタンは柄がほとんど同じなんですね。
物語の最後で、何でもできて何でも知ってるジタンのことを、ダヤンはうらやむのをやめにしたとありますが、ジタンはジタンでダヤンのことをうらやましいと思っているんですよね。なんかこうぐっとくるものがある関係です。この二人が猫でなく美少年だったら、やおいおねーさん方が放ってはおかないでしょう。
しかし、ただの一輪車でさえ勝手に動き出すとは、ジタンがいなくともマージョリーノエルの底の知れなさ加減は充分なようですね。
ちなみに、マージョリー・ノエルだったら歌手の名前になるんですね。知らんかった。

マーシィとおとうさん (DAYAN’S COLLECTION BOOKS)

……えーと。崩壊家庭の様子を描いた物語のわちふぃーるど版ですか? その、夢みたいなことばかり言う道楽男と働き者の苦労人の女のカップルっていうのは、えー、洒落になんないと言うか笑えないな、と思ったり。これで男の方が浮気をせず子供を可愛がってるだけマシだよなあと。さておき、オットーがマーシィに聞かせた歌は三段落ある訳で、そのうち実現したのは最初の段落な訳で。……残りの二段って、伏線なのかな。
オットーは最後にふらっと出かけて、この後トリポカの謎まで戻って来ません。気まぐれな月うさぎの本領発揮と言ったところですね。月うさぎと呼ぶよりは三月うさぎと呼んでやりたいですが。
こういうのを邪推と言うんでしょうが、充分に父性と接することのできなかったマーシィはエレクトラ・コンプレックスの気が……いや、なんでもないです。

ヨールカの白いお客さん (DAYAN’S COLLECTION BOOKS)

ダヤンがアルスからヨールカの夜にやってきたように、毎年のヨールカの夜には色んなところから色んな動物がやってくるのですね。そういうお話。
みんなで騒いで踊って、わちふぃーるどはいいところだなあ。まっ、俺はWebとコンピュータがないところで生きていける自信がないけどなっ。

チビクロ・パーティ (わちふぃーるど物語)

影が動き出す話、第二弾です。一回目はダヤン、わちふぃーるどへ (Dayan in Wachifield)でエルフたちの国へ行く途中ですね。あの時、イワンの影はしわくちゃになったはずですが、今回イワンの影にそんな様子はありません。まあ、どうでもいいことですけど。
そしてかかとを打ち合わせる踊りにあんな意味があるとは、実にうまい設定です。
さらに驚愕の事実が判明。ダヤンは標準より太っている!?
……まあ、猫なんだから、丸いのはあたりまえなんだけど。

ダヤン、シームはどこ?

ダヤン、シームはどこ?

ダヤン、シームはどこ?

筋としては不思議の国のアリスの影響が強い感触ですが、そんなことよりも、見開きページ全てに一人(?)ずつシームが絵に隠されており、それを探すのを楽しむ本です。
探している間は実に楽しい気分になれました。こんな気分になったのは、魔術師タンタロンの12の難題 (パズルゲームブック)をやって以来でしょうか(半分嘘)。
眺めるだけで文字を読まなくていい本なので、まさに絵本と言った趣があります。

戦闘美少女の精神分析その2

戦闘美少女の精神分析

戦闘美少女の精神分析

オタクは必ずしもキャラクターを偶像視(聖化)しない。全くしない訳ではないが、それはスタンス、芸風といったものの中に収まる範囲である。たとえば、同じ「○○(アイドル名)はトイレに行かない!」と言う偶像視は、オタクであれば「俺が便器になるからだ!」と落として受けを取るところを、オタクからは異端とみなされるイタイ奴であればとにかく本気でそれを信じ、しかもそれを他人に押し付ける。
オタクかそうでないかの線引きは、アニメキャラ(二次元キャラ)で抜けるかどうかが一つの分岐点になる。……ああ、俺はオタクだ。でもモーニング娘。じゃ抜けねえなあ。
オタクは複数の欲望形態を持つ。別段無理をして欲望を抑えている訳ではなく、健常な欲望と偏った欲望を一つの本性に収めてぶれることがないと言う意味である。一つ例をあげれば、「げんしけん」の高坂が夜になれば咲と(恐らくはノーマルな)セックスをやりながら、同時に即売会で同人誌を買ってきた晩には一人にな(ってオナニーす)るくだりが、オタクの欲望の二重性をよく表現しているように思う。

ファリック・ガールはオタクが一般的に持つ(とされる)欲望を全て内包している。同性愛、ロリペド、SM、それらの単純な合成ではなく、逆転、変形、複合、あらゆる形で含みしかもそれを自在にいじりまわすことができる。この複雑さはオタクの精神の特徴でもある。

日本のオタクはセクシュアリティに対して、海外に比べて寛容である。むしろ、日本がセクシュアリティに関しては無法地帯と言っていい。クリーチャーやスプラッターが大好きな海外のオタクが日本のオタクショップにやってきて、好きなグロフィギュアを買い漁る風景はよくあるが、しかし彼らは教会の中で純粋培養された天使たちのように、エロゲー、エロフィギュアのコーナーに足を踏み入れることができない。その様は民間人虐殺はできてもレイプはできない心を病んだ兵士のようだ。
それと、オタクは元来自閉的ではない。
オタクは、一つの作品に対して熱狂しながら、同時に醒めた視点を保持する。あるいは、それができなければオタクではない。
オタクは自虐ですら笑いのネタにする。むしろ、あたりまえすぎて珍しいことではないが。
少女アニメオタクは実在の少女を襲わない。TRUMPやモリスの同人誌を読んでいる奴がそこら辺の野良猫を襲うこともない。むしろ、襲う方が異端である。(この認識は最近の小中学生誘拐の連鎖を考えると、再考する余地があると考えられるが)
(続く)




※2005/04/22 Fri 11:07:57 に再編集されました。
※2004/11/01 Mon 19:22:58に再編集されました。
※2004/10/30 Sat 17:12:11に再編集されました。

俺フェチ (1) (ドラゴンコミックス)/俺フェチ (2) (ドラゴンコミックス)

俺フェチ (1) (ドラゴンコミックス)

俺フェチ (1) (ドラゴンコミックス)

俺フェチ (2) (ドラゴンコミックス)

俺フェチ (2) (ドラゴンコミックス)

買うんじゃなかった。
何もかもが中途半端。どちらかというと突っ走っているが、それが面白い方向に行ってない。
4コマに行って正解な感じ。

りぜるまいん (Kadokawa comics A extra)

りぜるまいん (Kadokawa comics A extra)

りぜるまいん (Kadokawa comics A extra)

あーもーベタな展開で鋳型から作った感じがしてもういいや。
しかも設定をきちんと説明してないし。プロトマンカインドって、言葉の意味はわかるがそれが何を示しているのかもさっぱりわからん。これはつまり漫画だけじゃなくてエロゲーもやれと言う命令電波か。他の国が作ったプロトマンカインドがストーリー上何の役にも立ってないあたりマジでもうどうにも。

新万能文化猫娘 (誕生編) (角川コミックス・エース・エクストラ)

誕生編と言いつつ続きが出た様子がないのがとても素敵であります。
まー、どうでもいいです。高田裕三が猫で萌えでイヤボーンを描くとこうなると。なんだか、3×3(サザン)EYESで大事なものは全部使ってしまった後の出がらしのお茶を飲んでいるような気がします。
唯一共感できるのは、寿司はトロやらハマチやらの脂身食ってナンボと言う点ですか。回る寿司なんだから好きなもん食わせろやゴルァ!

マージョリーノエルがやってきた (DAYAN’S COLLECTION BOOKS)

こうやって改めて並べて見ると、ダヤンとジタンは柄がほとんど同じなんですね。
物語の最後で、何でもできて何でも知ってるジタンのことを、ダヤンはうらやむのをやめにしたとありますが、ジタンはジタンでダヤンのことをうらやましいと思っているんですよね。なんかこうぐっとくるものがある関係です。この二人が猫でなく美少年だったら、やおいおねーさん方が放ってはおかないでしょう。
しかし、ただの一輪車でさえ勝手に動き出すとは、ジタンがいなくともマージョリーノエルの底の知れなさ加減は充分なようですね。
ちなみに、マージョリー・ノエルだったら歌手の名前になるんですね。知らんかった。

マーシィとおとうさん (DAYAN’S COLLECTION BOOKS)

……えーと。崩壊家庭の様子を描いた物語のわちふぃーるど版ですか? その、夢みたいなことばかり言う道楽男と働き者の苦労人の女のカップルっていうのは、えー、洒落になんないと言うか笑えないな、と思ったり。これで男の方が浮気をせず子供を可愛がってるだけマシだよなあと。さておき、オットーがマーシィに聞かせた歌は三段落ある訳で、そのうち実現したのは最初の段落な訳で。……残りの二段って、伏線なのかな。
オットーは最後にふらっと出かけて、この後トリポカの謎まで戻って来ません。気まぐれな月うさぎの本領発揮と言ったところですね。月うさぎと呼ぶよりは三月うさぎと呼んでやりたいですが。
こういうのを邪推と言うんでしょうが、充分に父性と接することのできなかったマーシィはエレクトラ・コンプレックスの気が……いや、なんでもないです。

ヨールカの白いお客さん (DAYAN’S COLLECTION BOOKS)

ダヤンがアルスからヨールカの夜にやってきたように、毎年のヨールカの夜には色んなところから色んな動物がやってくるのですね。そういうお話。
みんなで騒いで踊って、わちふぃーるどはいいところだなあ。まっ、俺はWebとコンピュータがないところで生きていける自信がないけどなっ。

チビクロ・パーティ (わちふぃーるど物語)

影が動き出す話、第二弾です。一回目はダヤン、わちふぃーるどへ (Dayan in Wachifield)でエルフたちの国へ行く途中ですね。あの時、イワンの影はしわくちゃになったはずですが、今回イワンの影にそんな様子はありません。まあ、どうでもいいことですけど。
そしてかかとを打ち合わせる踊りにあんな意味があるとは、実にうまい設定です。
さらに驚愕の事実が判明。ダヤンは標準より太っている!?
……まあ、猫なんだから、丸いのはあたりまえなんだけど。

ダヤン、シームはどこ?

ダヤン、シームはどこ?

ダヤン、シームはどこ?

筋としては不思議の国のアリスの影響が強い感触ですが、そんなことよりも、見開きページ全てに一人(?)ずつシームが絵に隠されており、それを探すのを楽しむ本です。
探している間は実に楽しい気分になれました。こんな気分になったのは、魔術師タンタロンの12の難題 (パズルゲームブック)をやって以来でしょうか(半分嘘)。
眺めるだけで文字を読まなくていい本なので、まさに絵本と言った趣があります。

戦闘美少女の精神分析その2

戦闘美少女の精神分析

戦闘美少女の精神分析

オタクは必ずしもキャラクターを偶像視(聖化)しない。全くしない訳ではないが、それはスタンス、芸風といったものの中に収まる範囲である。たとえば、同じ「○○(アイドル名)はトイレに行かない!」と言う偶像視は、オタクであれば「俺が便器になるからだ!」と落として受けを取るところを、オタクからは異端とみなされるイタイ奴であればとにかく本気でそれを信じ、しかもそれを他人に押し付ける。
オタクかそうでないかの線引きは、アニメキャラ(二次元キャラ)で抜けるかどうかが一つの分岐点になる。……ああ、俺はオタクだ。でもモーニング娘。じゃ抜けねえなあ。
オタクは複数の欲望形態を持つ。別段無理をして欲望を抑えている訳ではなく、健常な欲望と偏った欲望を一つの本性に収めてぶれることがないと言う意味である。一つ例をあげれば、「げんしけん」の高坂が夜になれば咲と(恐らくはノーマルな)セックスをやりながら、同時に即売会で同人誌を買ってきた晩には一人にな(ってオナニーす)るくだりが、オタクの欲望の二重性をよく表現しているように思う。

ファリック・ガールはオタクが一般的に持つ(とされる)欲望を全て内包している。同性愛、ロリペド、SM、それらの単純な合成ではなく、逆転、変形、複合、あらゆる形で含みしかもそれを自在にいじりまわすことができる。この複雑さはオタクの精神の特徴でもある。

日本のオタクはセクシュアリティに対して、海外に比べて寛容である。むしろ、日本がセクシュアリティに関しては無法地帯と言っていい。クリーチャーやスプラッターが大好きな海外のオタクが日本のオタクショップにやってきて、好きなグロフィギュアを買い漁る風景はよくあるが、しかし彼らは教会の中で純粋培養された天使たちのように、エロゲー、エロフィギュアのコーナーに足を踏み入れることができない。その様は民間人虐殺はできてもレイプはできない心を病んだ兵士のようだ。
それと、オタクは元来自閉的ではない。
オタクは、一つの作品に対して熱狂しながら、同時に醒めた視点を保持する。あるいは、それができなければオタクではない。
オタクは自虐ですら笑いのネタにする。むしろ、あたりまえすぎて珍しいことではないが。
少女アニメオタクは実在の少女を襲わない。TRUMPやモリスの同人誌を読んでいる奴がそこら辺の野良猫を襲うこともない。むしろ、襲う方が異端である。(この認識は最近の小中学生誘拐の連鎖を考えると、再考する余地があると考えられるが)
(続く)



※2005/04/22 Fri 11:07:57 に再編集されました。
※2004/11/01 Mon 19:22:58に再編集されました。
※2004/10/30 Sat 17:12:11に再編集されました。

俺フェチ (1) (ドラゴンコミックス)/俺フェチ (2) (ドラゴンコミックス)

俺フェチ (1) (ドラゴンコミックス)

俺フェチ (1) (ドラゴンコミックス)

俺フェチ (2) (ドラゴンコミックス)

俺フェチ (2) (ドラゴンコミックス)

買うんじゃなかった。
何もかもが中途半端。どちらかというと突っ走っているが、それが面白い方向に行ってない。
4コマに行って正解な感じ。

りぜるまいん (Kadokawa comics A extra)

りぜるまいん (Kadokawa comics A extra)

りぜるまいん (Kadokawa comics A extra)

あーもーベタな展開で鋳型から作った感じがしてもういいや。
しかも設定をきちんと説明してないし。プロトマンカインドって、言葉の意味はわかるがそれが何を示しているのかもさっぱりわからん。これはつまり漫画だけじゃなくてエロゲーもやれと言う命令電波か。他の国が作ったプロトマンカインドがストーリー上何の役にも立ってないあたりマジでもうどうにも。

新万能文化猫娘 (誕生編) (角川コミックス・エース・エクストラ)

誕生編と言いつつ続きが出た様子がないのがとても素敵であります。
まー、どうでもいいです。高田裕三が猫で萌えでイヤボーンを描くとこうなると。なんだか、3×3(サザン)EYESで大事なものは全部使ってしまった後の出がらしのお茶を飲んでいるような気がします。
唯一共感できるのは、寿司はトロやらハマチやらの脂身食ってナンボと言う点ですか。回る寿司なんだから好きなもん食わせろやゴルァ!

マージョリーノエルがやってきた (DAYAN’S COLLECTION BOOKS)

こうやって改めて並べて見ると、ダヤンとジタンは柄がほとんど同じなんですね。
物語の最後で、何でもできて何でも知ってるジタンのことを、ダヤンはうらやむのをやめにしたとありますが、ジタンはジタンでダヤンのことをうらやましいと思っているんですよね。なんかこうぐっとくるものがある関係です。この二人が猫でなく美少年だったら、やおいおねーさん方が放ってはおかないでしょう。
しかし、ただの一輪車でさえ勝手に動き出すとは、ジタンがいなくともマージョリーノエルの底の知れなさ加減は充分なようですね。
ちなみに、マージョリー・ノエルだったら歌手の名前になるんですね。知らんかった。

マーシィとおとうさん (DAYAN’S COLLECTION BOOKS)

……えーと。崩壊家庭の様子を描いた物語のわちふぃーるど版ですか? その、夢みたいなことばかり言う道楽男と働き者の苦労人の女のカップルっていうのは、えー、洒落になんないと言うか笑えないな、と思ったり。これで男の方が浮気をせず子供を可愛がってるだけマシだよなあと。さておき、オットーがマーシィに聞かせた歌は三段落ある訳で、そのうち実現したのは最初の段落な訳で。……残りの二段って、伏線なのかな。
オットーは最後にふらっと出かけて、この後トリポカの謎まで戻って来ません。気まぐれな月うさぎの本領発揮と言ったところですね。月うさぎと呼ぶよりは三月うさぎと呼んでやりたいですが。
こういうのを邪推と言うんでしょうが、充分に父性と接することのできなかったマーシィはエレクトラ・コンプレックスの気が……いや、なんでもないです。

ヨールカの白いお客さん (DAYAN’S COLLECTION BOOKS)

ダヤンがアルスからヨールカの夜にやってきたように、毎年のヨールカの夜には色んなところから色んな動物がやってくるのですね。そういうお話。
みんなで騒いで踊って、わちふぃーるどはいいところだなあ。まっ、俺はWebとコンピュータがないところで生きていける自信がないけどなっ。

チビクロ・パーティ (わちふぃーるど物語)

影が動き出す話、第二弾です。一回目はダヤン、わちふぃーるどへ (Dayan in Wachifield)でエルフたちの国へ行く途中ですね。あの時、イワンの影はしわくちゃになったはずですが、今回イワンの影にそんな様子はありません。まあ、どうでもいいことですけど。
そしてかかとを打ち合わせる踊りにあんな意味があるとは、実にうまい設定です。
さらに驚愕の事実が判明。ダヤンは標準より太っている!?
……まあ、猫なんだから、丸いのはあたりまえなんだけど。

ダヤン、シームはどこ?

ダヤン、シームはどこ?

ダヤン、シームはどこ?

筋としては不思議の国のアリスの影響が強い感触ですが、そんなことよりも、見開きページ全てに一人(?)ずつシームが絵に隠されており、それを探すのを楽しむ本です。
探している間は実に楽しい気分になれました。こんな気分になったのは、魔術師タンタロンの12の難題 (パズルゲームブック)をやって以来でしょうか(半分嘘)。
眺めるだけで文字を読まなくていい本なので、まさに絵本と言った趣があります。

戦闘美少女の精神分析その2

戦闘美少女の精神分析

戦闘美少女の精神分析

オタクは必ずしもキャラクターを偶像視(聖化)しない。全くしない訳ではないが、それはスタンス、芸風といったものの中に収まる範囲である。たとえば、同じ「○○(アイドル名)はトイレに行かない!」と言う偶像視は、オタクであれば「俺が便器になるからだ!」と落として受けを取るところを、オタクからは異端とみなされるイタイ奴であればとにかく本気でそれを信じ、しかもそれを他人に押し付ける。
オタクかそうでないかの線引きは、アニメキャラ(二次元キャラ)で抜けるかどうかが一つの分岐点になる。……ああ、俺はオタクだ。でもモーニング娘。じゃ抜けねえなあ。
オタクは複数の欲望形態を持つ。別段無理をして欲望を抑えている訳ではなく、健常な欲望と偏った欲望を一つの本性に収めてぶれることがないと言う意味である。一つ例をあげれば、「げんしけん」の高坂が夜になれば咲と(恐らくはノーマルな)セックスをやりながら、同時に即売会で同人誌を買ってきた晩には一人にな(ってオナニーす)るくだりが、オタクの欲望の二重性をよく表現しているように思う。

ファリック・ガールはオタクが一般的に持つ(とされる)欲望を全て内包している。同性愛、ロリペド、SM、それらの単純な合成ではなく、逆転、変形、複合、あらゆる形で含みしかもそれを自在にいじりまわすことができる。この複雑さはオタクの精神の特徴でもある。

日本のオタクはセクシュアリティに対して、海外に比べて寛容である。むしろ、日本がセクシュアリティに関しては無法地帯と言っていい。クリーチャーやスプラッターが大好きな海外のオタクが日本のオタクショップにやってきて、好きなグロフィギュアを買い漁る風景はよくあるが、しかし彼らは教会の中で純粋培養された天使たちのように、エロゲー、エロフィギュアのコーナーに足を踏み入れることができない。その様は民間人虐殺はできてもレイプはできない心を病んだ兵士のようだ。
それと、オタクは元来自閉的ではない。
オタクは、一つの作品に対して熱狂しながら、同時に醒めた視点を保持する。あるいは、それができなければオタクではない。
オタクは自虐ですら笑いのネタにする。むしろ、あたりまえすぎて珍しいことではないが。
少女アニメオタクは実在の少女を襲わない。TRUMPやモリスの同人誌を読んでいる奴がそこら辺の野良猫を襲うこともない。むしろ、襲う方が異端である。(この認識は最近の小中学生誘拐の連鎖を考えると、再考する余地があると考えられるが)
(続く)