「カフカ短篇集」

カフカ短篇集 (岩波文庫)

カフカ短篇集 (岩波文庫)

8月22日(昨日)読了。
「火夫」は読んでいない。

一作品一作品から背後にあるテーマを読みとり解釈する、という作業をするのには難解だった。カフカから提供された世界に没入するように心掛けた。「変身」以上に不可解だった。

長編「変身」はそこまでケイオスな感じではなかったので、次は長編「審判」を読みたい(購入済み)。

「カンガルー・ノート」

カンガルー・ノート (新潮文庫)

カンガルー・ノート (新潮文庫)

8月23日読了。

ある日突然男の脛に《かいわれ大根》が生える。男は病院で医者に診てもらうが、手術室に招かれてベッドに拘束される。その後ベッドが自走して、暗渠、硫黄温泉、賽の河原、病院の大部屋などを巡回することになる。男は最終的に廃駅に到着して、気にかかっていた垂れ目の少女と対面することになり子供の集団に捕えられる。物語は脛に傷を負った男が廃駅で死亡しているとの旨を書いた新聞記事の抜粋で終わる。

「カンガルー・ノート」は安部公房が逝去する2年前に書かれ遺作となる。そのためか明らかに「死」がテーマになってる。読み進めていても、どこまでが現実でどこまでが非現実なのかが明確に分からない。しかし実際に廃駅で死亡が確認されていることから、自走ベッドで駅に来たという点は現実なのだろう。では新聞記事で恐らく認識されていない《かいわれ大根》とは何だったのか。垂れ目の少女と自走ベッドが旅の一貫性を保証するが、一見何の関係もない舞台が次々と出現する。まるで夢を見ている感覚に陥る。

以前、具体的には2〜3年ほど前に、某ようつべで安部公房のインタビュー動画を見たことがある。そこでは「何が言いたいか(つまり主題)を物語に吹き込んでいるわけではない。世界を提示しているだけだ」という趣旨の発言をしていた記憶がある(記憶も曖昧なので若干怪しいが)。その発言以後安部公房の作品を読む際、僕は無駄に解釈やメタファーを解読するのではなく、世界に没入することだけを考えている。今回は「死」であったり「死と生の境界」という極めて観念的な世界観が想定されているだけに、この読み進め方が適していたのではないか、と思った。

新潮文庫から出ている安部公房はこれで10冊目。次は本棚に構えている「友達・棒になった男」「密会」を読む。