晴釣雨読

As the train goes through the mountain path, leaning on the lightcyan window, only I would think about my fun.

さあさあさあ滝川市教育委員会は教育長の安西さん

泣いてるよ。嗚咽してるよ。
市長に連れられて遺族に謝罪なんて、もうお先真っ暗だ。安寧な老後は崩れた。懲戒解雇かもしれない。年金は残っても天下りは望めないかもしれない。もうダメだ。自分はもうダメだ。そう心で叫んで泣いてるよ。

自殺予告もという報道があって

それなら当然両親が気づかないわけがない、子供と話し合い、子供と向き合っていれば*1、イジメの事実を事前に察知できたはずだ。親は何をしてたんだ、という批判もあるようですが。

*1:この子供と話し合うとか向き合うとかいう表現もイヤイヤながら引用。

あたしが今回あったま来てんのは、お役所に対してだけ。

自殺に追いやった同級生とか担任とか、知りようがないから考えたくない。
考えたいのは、「あたしはイジメっていう表現そのものが気に入らない」と以前書いたことありますが、今回は今回でイジメの有無=暴力の有無と考えるお役所の、その自己保身ぶりがたまらなく気に入らないってこと。

死人に鞭打つ権利がどこにある。

「両親が気づいていれば防げたのではないか」「両親が子供ともっと話し合い、学校側ともっと話しあっていれば防げたのではないか」なんていうくだらないタラレバ論をいじる気は毛頭ありません。そんなのは当の遺族にだけ許されている後悔で、死んじゃった彼女を元に戻せもしない奴らがあれこれ心配する必要はない。問題なのは、

今この時目の前で繰り広げられている

侮辱罪にも過失致死にもなる事件をお役人がひたすら無視して、自分の立場を死守する有様。これはどうしてなのか?ってことです。
それほど、役人の福利厚生ってのは美味でやめられない。終身雇用当たり前、地方上級でも合格すりゃいいとこ天下って年金合わせて死ぬまで人よりいい量のカネがもらえる。あたしのイトコにも1人いますよ、そういうのが。もうそのことしか考えてない。それが当たり前だから。他の理由なんか考える必要もないし考えたこともないから。

いじめを理由に教室で首吊り自殺!?こりゃ大変だ!

どんな暴力があったのかとか遺族の心情なんかより天下りの方が絶対の絶対に重要だ!
あたしが今反吐が出るほどイヤなのは、そういう公僕が厳然として平然として血税を吸って生きていることと、それが今やっと吊るし上げをくらっていることです。自分の足元がぐらつく出来事を目前にして、相手の立場を思いやるなんて不可能なんだと言え。誰の目にも建前としか見えない涙なんか見せなくていい。安西さん、本音をそのままおっしゃいよ。楽にしてあげるよ。


「思いやりのある子に育てたい」

というフレーズを、とある育児ブログで見かけました。さあ。さあさあ。掘り下げましょう。
思いやりって何ですか?相手の気持ちを考えるってことですか?自分が想像できる範囲で、相手の立場になって考えて、最善の言動を選ぶってことですか?「相手の気持ちを考えろよ」というセリフは、中島義道っちゃんのキライな言葉の第一章だ。

むかーし見た中学生日記で、

借りた本をお醤油で汚しちゃったシーンを思い出した。
その本は、貸した子にとってとてもとても貴重な漫画か小説か何かで、べっとり汚れたこれをそのまま返すわけにはいかない。しかしその本はレア物だったか同じ物を買うお金がないかで、とにかく読める状態の本を返すことができなくて、借りた子が逡巡するという場面。
その結末なんか覚えちゃいませんけど、あたしが思うのは、

「いっくら思いやったところで、それは相手の欲するところと絶対に一致しない」

ということです。
蹴ったら相手が痛いから蹴らない、物を取ったら相手が悲しいから取らない、なんてシンプルなケースで済むのはせいぜい幼稚園ぐらいでしょう。
思いやりを連呼する親に知らせたいのは、あくまでも思いやりというのは自己満足の想像の産物であって、こうすれば相手を傷つけないだろう、納得してもらえるだろうという勝手な期待に満ちた欺瞞に過ぎないという考察。
あたしは、特にあたしなんかは、物に執着がないから人に貸した物が破れたまま返されてもなんとも思いません。だから謝罪は無用です。返ってきて初めて貸したことを思い出すような人間です。
そんなあたしは、お醤油べったりの本を平気で返されても、平気で受け取ります。執着が自分を縛り付け自由を奪うってことを痛いほどわかっているから。他人に貸して汚されて許せないものなんかひとつもない。そもそもそんなものがもしあったら、「絶対綺麗なまま返してね」なんていいながら貸したりもしない。

そんなヤツもいるということなんか想像したことのない人々が圧倒的多数らしくて、

こないだちょっと緊急事態があって服を貸した友人Sなんかは、わざわざ高価なストッキングなんかつけて返してくれましたけど、あたしは「ストッキングなんか履かない」んですよ。
普段のあたしを思い出してくれればすぐ気付くような簡単なことなのに。ストッキングなんかつけて歩いた試したがないよ、この5年。だからただのポーズ。本当にただのポーズ。
本気であたしのことを思いやって礼を尽くして返したいと思ったのなら、「何かお礼をしたいんだけど」とあたしに一言尋ねない限り、「思いやりの正解」なんか出てこない。
だから彼女のそのストッキングという誠意は、ただの欺瞞なんです。自己満足なの。どうもありがとうとクチで言うだけでは「自分が」もの足りないから、それなりのものを入れておけば正解だろうという、ただの欺瞞です。あたしという人間をちっとも思いやってないから、結果として減点。

そうやって思いやりを自己完結させている限り、

相手の実際の意図は1ミリも介入しないから、「相手の立場になって思いやってあげる」という手法は、ただの想像上の産物、自己欺瞞、自己満足ということになる。んでもって「思いやりのある子に育ってほしい」という願いを持つ親は、「自分で想像できる範囲で相手の考えを計算するというテクニックを習得してほしい」ということになるでしょう。
子の想像力がもし貧困だったら?自分がしてほしいことをしたら相手も喜ぶなんて安直に考えたら?相手があたしのように貸したモノなんかどうでもいい変人だったら?もっと義道調に言えば、相手の意思が実質反映していない以上、それは相手の行間を勝手に読む非常に乱暴な思考だとすら言える。

つまり、

もしかしたら相手は、何でも気軽に貸してくれる割には返品期限に厳しい人間かもしれないし、返すときには菓子折りのひとつも必ずついてくるものと考えているかもしれないし、そもそも人に何かを勝手に思いやってもらうことが大嫌いな人種*1かもしれない。
相手によかれと想像の限りを尽くしてやったことが、逆に怒りを買うことがある。そういった事実を忘れたのか知らないのか、そんな複雑なことを想像して自分の言動を決定しろというのは、子供には無理です。大人にはもっともっと無理。

*1:それがいつもいつもハズレだから。とかいう経験から。

大人になると趣味趣向の個性化が進んで

更に複雑になる。ストッキングつけときゃ体裁が整うだろうという安直な想像を嫌悪するようなあたしがいるように、ちょっと白髪が多いからって電車で席を譲られるのが大嫌いな老人もいるかもしれない。
そういう欺瞞に満ちた善意の押し売りな想像もすべて「思いやり」のうちに含まれるいうことを、「思いやりのある子に育ってほしい」と言う親はきっと考えたことがないんだろう。そんな例外に行き当たって初めて「こういうこともあるのよ」と子供に教えないでほしい。混乱するから。思いやりが絶対安全圏を確保できない理由を「最初の最初から」説明する必要がある。

そうでなければ、

いつか、思いやった結果が思いがけない方向に進んで、「せっかく何々してあげたのに」とその子は首を傾げるはめになる。思いやりってのは一方通行であって、相手の反応が必ずしも同レベルの謝意に満ちているとは限らない。それも一緒に教えてあげてんのかしらと不思議に思います。

自分が受けたくて受かりたくて受けるくせに

なーにが「何かくれる?」なんてかなりアホだなと思いながら、勉強の対価として何かを得られる快感って何者にも代えがたいことを再確認する。
何でもいいんだけど、合格それ以外にプラス何か欲しいと思っちゃうんだな、昔から。治らない癖。でもあたしの母親はとてつもない馬鹿なので、そういう取引には絶対に乗ってこなかった。だから自分で何かを設定して、自分でそれを得ようと勉強したんだった。


またいっこ思い出した。

あたしは小学校の低学年の頃、家の間取りを方眼紙に描くことが趣味でした。ああでもないこうでもないと、夢を2次元に投影しては楽しんでいた。
「できた!」と母親に見せると、「玄関が北向きだ」「廊下が折れ曲がりすぎる」「階段の位置が(上下階で)合ってない」と非常に実用的なことを教えてくれたが、手放しで「ユニークな家だ」と褒めてくれたことは一度たりとしてなかった。だから当然の成り行きとして、あたしは大好きな平面図達を隠すようになった。誰にも見せないようになった。

あたしは母親が想像していた以上に

学校の勉強がよくできる子だったから、それがあの人を強欲にした。赤点しか取ってこない子だったら、最低限のことだけを教えてくれただろう。でもあたしには更に上を更に上を強制した。子供だったから、強制されたという意識もない。ただ、母親の言う通りにやらなければ怒られる、それだけだった。
弟が、「いつも横に母さんがついて(勉強を見て)て、姉さんはかわいそうだなと思ってた」と言った。そうか、あたしはかわいそうだったのか。知らなかった。
勉強して満点取っても驚いてくれない母親というのは、罪なものだ。せめて驚いた演技でもしてほしかった。方眼紙に色々描いているのが気に入らず、まとめてくしゃくしゃにした彼女にあたしは泣いて抗議した。彼女は開き直った。

「そんなこと学校でやらないでしょうよ!!!」

世の中には大学というものがあって、建築学科というものがあって、そこに行けば好きなだけ間取りを描かせてくれるわよ。そう言ってくれていたら、あたしも救われただろうに。つくづく馬鹿な親だ。


あたしは考えた。

私「一番が絶対いいかどうかはわからないけど、一番だとわかりやすいからそれはいいと思うよ」
委「わかりやすいんだ」
私「これは一番が取れるんだ、これは一番が取れないんだ、って。取れる方が面白いと思えばその一番をずっとやっていけばいいと思うし、取れないのがくやしかったら取れないのをがんばって繰り返す。あたしなら」


友人Mの子Kに聞かれた。

彼は小学4年生だ。算数は得意で国語が大の苦手。得意なはずの算数も、文章題になったとたん国語力が足をひっぱって失点するという。
K「どうしてこんなにたくさん勉強しなきゃいけないんだよ」
友人Mは母親なので、改まってこんな質問をされても受け流すことしかできない。
しかたがないのであたしが代わりに考えた。
私「色々やってみて、得手不得手がわかれば、この先どんなことをもっとやってみたいとかがわかるから、とりあえず若いうちは何でもやってみて、可能性が高そうなものを選ぶのが無難なのよ、世の中は」
K「無難って何」
私「面倒が少ないってこと。プレステやってるってだけでお金もらえるのは、テスターだけだから。デバッガだけ。自分がやりたいゲームかどうかには全然関係なく、ひたすらメチャクチャやってみろって言われる仕事がいいんだったら、毎日ゲームだけやりこんでればいいと思うけどね」
K「あーおれ一日中ゲームしてたい」
私「だったらプログラマになれば?あんた算数得意なんでしょう?絵は描けなくても、条件の評価が正確にできればプログラマで十分食べていけるわよ」
K「へーー。算数だけやってればいいんだ?」
私「それはもうちょっと後になるね。今はとりあえず、他にも役に立ちそうなことがないかどうか、うまく手をつけておきなさいよ。損するのと得をするのと、どっちがいい?」
K「得」
私「でしょう?」

嗚呼俗物なあたし。

中学から三田の慶應に長男を入れた友人Iは、長男に「いまやっとけば一生勉強しないで済むんだから!」とはっぱをかけていたそうだ。今高校生の長男からは、「母さんてうそつきだよなあ」とテスト前に愚痴られたりすると言う。

ウソをついてでも得をしたい(させたい)。

そりゃ偏差値低いより高い方がいいでしょう。誰にでもできるつまんない仕事だけが回ってくるよりは、お前にしかできない難しい仕事だと言われる方が「一般的には」嬉しいものでしょう。そう仕込まれていく限りでは。ていうか資本主義なんだから。いいものを確実に提供できる頭脳が求められるんですよ。