秘境・上海情報 

上海の歴史、租界 戦跡巡り 只今日本に滞在中

日の丸部落

硝煙下の桃源郷 江南の日の丸部落
アサヒグラフ1937年11月10日号より 『烟なほ烟る揚子江附近の片隅に、
我が軍の庇護によつて平和に歸つた 二つの部落がある』 

宝山県沈家橋 『あまつさえ昼夜を分かたぬ庇護を加えられて
綿の選別に余念の無い 部落民の嬉しそうな顔を見るがよい』 

宝山県盛家橋 『我が兵に護られて野良仕事より部落へかえる
日の丸部落の女子供たち』 同紙から引用

上海事変 上海郊外宝山県は日中両軍が衝突した激戦地
江南の大地に点在する村々は 戦火と破壊で犠牲を強いられた。
その中 日本軍が保護したと宣伝された村が日の丸部落である
東宝記録映画 上海 支那事変後方記録にも村の映像がでてくる

宝山6路線 日の丸部落といわれた村はどこだったのだろう

産業道路で大渋滞 道も様変わりし地図さえ追いつきません。尋ね歩き

沈家橋 やっと辿り着きました。 

あの時の写真 兵士と村人の後ろに写る瓦屋根の家屋 いまは
村の廟となり 古井戸は香炉に 線香が供えられていました
(本堂は休日によりドアが閉まっていました。)

廟から橋がみえた 橋の名も沈家橋でした。 向こう岸には
トーチカが佇む 紛れもなく上海事変 戦場の中の村でした。

盛家橋 現名・盛橋鎮 沈家橋から揚子江方面2.2公里にあります。

あの時の写真 兵士と村人が歩いていた木橋 その場所です。

後に架けられた橋の名は老街橋です。元々盛家橋は明代から発展した村で
水上の交通の要所 入り江に近い橋は幾度と攻撃を受け破壊されました。

もうそんな時代もおわり みんな安心して渡っている 

ふたたび沈家橋の上 振り向いた可愛い笑顔

沈家橋村の優しいおじさん なにも聞かず ただ

心配してついて来てくれました。

親切にしていただき本当に感謝です。この友好よ いつまでも・・・
   

 ・・日本側戦記 中国側資料を照らし合わせ 独自で探しました
      誤記などがあればご容赦ください