Omlette du pere Masao in Mt. Moiwa


昨日メカスのフィルムを見てから、オムレツが作りたくて、食べたくて仕方がなかった。よせばいいのに、昨晩から家族には朝食にはオムレツを作るぞと宣言していた。私の料理のセンスを信用していない家族との協議の結果、自分の分は各自作ることになった。プライドを傷つけられた私は、しかし、めげなかった。これで私が作ったオムレツの方が美味ければ、不信はリスペクトに変容するであろう、と密かに気合いを入れた。私は実はまだはっきりと目覚めていない頭を叩きながら、卵を一個割った。生クリームはなかったので牛乳を少々。やっぱりどうもいまひとつ機転が利かない。手が動かない。それでも根性で10分くらいはホイップして、軽く下味をつけ、熱したフライパンにバターをやや多めにしいて、溶けたところで、絹のようにはならなかった斑に泡立った生地をそこに流し込んだ。すると、生地の量に比べ、熱が強すぎたのか、あれよあれよというまに熱が伝わり、形を整える間もなく、クレープのようになってしまった。仕方なく二つ折りにして、皿に盛りつけようとしたら、今度は千切れた。無惨。

家族は、案の定、とばかりに大受けしていた。家族が作ったやつはこじんまりときれいにオムレツらしい顔をしていた。きちんと何重にも巻かれてさえいた。なんだ、だし巻き卵じゃ、ねえんだぞ、と憎まれ口をたたきながらも、私は軽い敗北感を味わっていた。何で、朝からこんな気分を、と思いながら。ところが、お互いに作ったオムレツを食べ比べてみたら、私のクレープ状のオムレツの方が数段美味だった!家族は不服そうだった。バターをたくさん使ったからよ。カロリー控えなくちゃいけないのに。私はほくそ笑んだ。バターを控えて不味いもので我慢するくらいなら、少しくらい早死にしても、美味いものを食いたい。それに、毎日食うわけじゃない。オムレツ(omlette)の語源はラテン語で「小さな金属の薄い板」という意味らしい。ということは私の失敗作のほうが、本来のオムレツに近いということになる。

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札幌は今朝は曇り。小雪がちらついていた。気温は低め。体感温度は零下4、5℃。散歩に出てすぐ、厚いヴェールのような雲に覆われた南方の空、太陽を撮るも、ピンぼけ。

復路、小さな公園の遊具の動物達の姿が見えなかった。よく見ると、象(elephant)が雪の布団をすっぽりと被り、鼻先だけ出していた。クワガタは跡形もなかった。

赤い大きな塊が視界に飛び込んで来た。消防車だった。三人の消防署員が消火栓を取り囲んでいた。

黄色い大きな塊が視界に飛び込んで来た。大型の除雪車が歩道に少し乗り上げて停車していた。民間業者の除雪車だ。19日に遭遇した札幌市の看板を背負った除雪車は明るいブルーだった。

二週間ほど前から放置されたままの自転車。

コロラドトウヒのツララが再生しつつあった。

散歩中、藻岩山は雪に煙って見えなかった。

再度、南方の空、太陽を撮ったら、小さくカラスが写っていた。

自宅そばの白樺の樹にハシブトガラスが鎮座していた。

ジャム・セッション:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、27日目。


Day 27: Jonas Mekas

Saturday Jan. 27, 2007 7 min. 27 sec.

Dalius Naujo & Friends,
of Himalayas,
accompany Douglas
Gordon
as he sings a
Scottish folk ballad
at a happy jam session
at Anthology.

ヒマラヤ出身のパーカッショニスト
ダリウス・ナウージョ(Dalius Naujo)と友人たちが伴奏するなか
ダグラス・ゴードン(Douglas Gordon)はスコットランドの民謡を歌う
アンソロジーでの幸せなジャム・セッション。

場所はアンソロジーAnthology Film Archives)。登場するのは1月7日にも登場した面々。昨年6月ジダンドキュメンタリー映画『ジダン 神が愛した男(Zidane:A 21st Century Portrait)』で日本でも知られるようになったスコットランド出身の映像作家ダグラス・ゴードン(Douglas Gordon, 1966-)は、短く刈り込んだ頭がジダンのようでもある。彼が歌うスコットランド民謡に合わせてジャズ風の伴奏が即興で繰り広げられる。楽しそうなジャム・セッション。ジャム・セッションとは即興ジャズ演奏会を指すが、元来「ジャムjam」は詰まった状態、おしくらまんじゅうのような状態のこと。ジャム・セッションの語感には、放っとけば寒いままの心と身体を暖める人間の知恵が継承されている。果物のジャムだって、似たロジック。後半、メカスの張り裂けるような歌声も聴こえる。

頁と改行:本 vs.ウェブ

私は常々、本の頁に印刷された文字を読むことと、ウェブ・ページ上の文字を読むことはかなり異質な体験だと感じている。ウェブ上の文字表示の革新性については、私もまだよく理解できていないのだが、いくつか思いついた事を簡単にメモしておきたい。

私がウェブに惹かれる理由の一つは、ウェブにおける「ページ」が本のページとは異なり、原理的に物理的制約のないところである。言わば「無限に広がるページ」というところ。実際には適当なところで区切りを付けはするが、それは便宜的な処置であり、原理的には区切りはないという点が想像や思考の革新において極めて重要だと考えている。つまり、ウェブの「ページ」は見かけ上の存在にすぎない。

そして、そのようなウェブ・ページにおける「改行」もまた、本のページにおける改行とは異なり、見かけにすぎない。本のページの改行に慣れ親しんでいる者の多くは、それに習ってウェブ・ページの文書においても強制的な「改行」を良しとする傾向が強いが、便宜的なインターフェースとしてのウィンドウの幅に合わせて可変的であるのが「本来」である。私は強制的な改行が好きではない。現に、このブログでも改行は可変的である。可変的な改行を「気持ち悪がる」人は本の頁の改行が根深く刷り込まれている人だと思う。

紙の上ではページと改行という足枷をはめられる文字がウェブではその二重の制約から原理的に解放される。それは文字表示が物質的な制約を脱する歴史的な一段階であり、そしてそれはまた頭の中の思考状態により近い文字表示法が誕生したことをも意味するのではないか。(あるいは逆に、思考は頁や改行に相当するような一種の断絶、区切りをむしろ必要とするのだろうか。)

本のページ上で文字表記法と格闘してきたのが詩人たちだった。彼らは様々な手法を考案しながら、紙の上に書かれる、印刷される文字が蒙る制約を食い破るような想像力を発揮してきた。翻って、そもそも「読む」という行為は、本のページと改行に条件づけられた文字たちをそこから解き放ち、別空間に移送することなのかもしれなかった。ウェブはそのような空間に一歩近付いたと言えるのかもしれない。