逃走=闘争の線

昨日、西欧思想のかなり深いところに控えている選択肢(AかBか)の話を書いた。
A:オデュッセウスギリシャ人)=帰郷派
B:アブラハムユダヤ人)=流浪派

実は、偶然、simpleAでは似たような選択肢が話題になっていた。「分譲か賃貸か」
A:分譲派
B:賃貸派

金城さんは、この選択肢が実は「まともな」(自由な)選択肢になっていない、結局は「住宅ローン誘導」モデルじゃないか、ということを嗅ぎ付けて、そこからの「逃走の線」の見本を引いてみせようとする。曰く、「極・賃貸派」のラインだ。極道のように響かなくもないところが、なかなか素敵だ。「逃走」とはいうまでもなく「闘争」である。

前衛と後衛の間の距離


Jonas Mekas, 1998*1

ジョナス・メカスの第一詩集『森の中で』(書肆山田、1996年、asin:487995375X)の最後に、鈴木志郎康(詩人・映像作家)による「言語が場面というものになる------ジョナス・メカス詩集『森の中で』について」という文章が収められている。そのなかで鈴木氏は実際にメカスに会い行動を共にしたときの印象を率直に語っている。

数年前に、メカスが来日して、彼と行動を共にする機会に恵まれたが、わたしは英語が話せないので殆ど話すことがなかったが、彼が話しているのを傍らで聞いていて、わたしが抱いていたメカスのイメージとは違うのを感じないわけにはいかなかった。そのときから、彼はわたしにとってかなり遠い存在になった。微妙なことだが、彼には普遍的な文化圏というものがあって、その中で生きているのであり、わたしが想像していたように自分に即した生き方をしている人かと思っていたら、そうではなかった。ヨーロッパとアメリカ、それが彼の文化圏であって、その中で彼は自分の存在を勝ち得ようとしてエゴイスティックに生きているのを感じさせられたのだった。(119-120頁)

それはそうだと思う。そうでなければ、現在私たちが知るメカスはありえなかっただろう。ある意味でメカスはエゴイスティックに闘ってきた、抵抗してきた。鈴木氏が鋭敏に感じとったメカスの姿勢は、だから、もっと広い視野でみれば、メカスからはそれこそ逆に「アジア的な普遍的な文化圏」のなかで生きているように見えるかもしれない鈴木氏や私にとっても、決して「遠い」ことではなく、むしろ私たちにとっても必須の闘いをメカスはその最前線で闘ってきたと見直すべきではないかと思う。その意味では私たちは前衛のメカスを後衛で見守ってきたにすぎないと言えるかもしれない。

*1:Documentary Film: March 2007より。この写真の出所は不明。

朗文堂からのメッセージ

知らなかった。


新宿に、朗文堂という主にタイポグラフィ関連の専門書を出版している会社があり、一昨年、アダナ・プレス倶楽部という新部門を立ち上げ、活版印刷機(Adana-21Jという小型の手動式卓上活版印刷機)を製造・販売・普及するという活動を行っていることを。

以前、酒井さんが企画中の活版印刷ワークショップのことをお知らせした。

そもそもは酒井さんが書いた北海道から活字鋳造の火が消えたという記事に触発されたのだった。

そこでの酒井さんと私の一連のやりとりをご覧になった朗文堂の方から「活版印刷を愛する同志として」心強いメッセージをいただいた。

朗文堂ではすでに、タイポグラフィ・スクール「新宿私塾」という、書物と活字づくり、すなわち「タイポグラフィ」の550年におよぶ歴史を実践的に学ぶ学校をも開設しており、非常に魅力的なカリキュラムを組んでいる。また一昨年には、「タイポグラフィ学会」(SOCIETY OF TYPOGRAPHY, JAPAN)も発足した。

こうしてまた、ブログが縁となり、未知の世界とのつながりが生まれた。

近々、酒井さんが主催する活版印刷ワークショップに参加し、その後の展開を含めて相談する予定である。