流動性とソルベンシーあるいはタダ飯について雑文

資金繰りと財務は別の概念であって、例えば相続税を払うために、家を売却せざるを得ないが釣りは残るケースもあれば、例えば我が国の現在のように、貸し手が殺到しつつも将来について心配されるケースもある。両者を意図的に混同させた「お金がない」を、しばしば夜の街で見かけたりするが、そんな話はどうでもいい。



さてヌルいヘリマネ*1が道路をこしらえて、たまたま具合バッチリで皆の役に立ったとすれば、評価の困難は置いておいても立派な資産であって、つまり必ずしも財政を悪化させるとは限らないわけだ。あるいは微妙に不要気味な道路だったとしても、その価値ゼロとは言えないものなら、突っ込んだカネの全てが失われたことにはならない。


他方で、財政を悪化させない素敵な道路以前に、貸し手としての金融機関は貸したくて仕方ない状況にあるわけで、そもそも政府は資金繰りには困っていない。要するに現在、その目的がヘボい道路であれ何であれ、いい値段で国債は売れるさ。現在のズバーカに加えて、日銀が国債を引き受ける必要は希薄だ。


もちろん素敵な道路が完成するのかどうか、事前にはわからない。あるいは見えにくいことだが、一見素敵な道路でさえ、他の商売に振り向けられるはずだったリソースが削られてしまい、よーく数えてみると全体としては、やらない方がマシだったというケースもあり得る。なんとなく俺達、全体としてはカネ持ちになれなかったねと。


どっこい本チャンのヘリマネは、そもそも直接的な純資産の移転が目的である。日銀のソルベンシーをゴリっと削って、家計にドカッとプレゼント。「責任をもって無責任に」とかダセー貨幣数量説は引っ込んでろ。いくらでも預金を「印刷できる」流動性をもって、ヘリコプターよりも正確に、家計の口座に打ち込むわけだ。


とはいえ日銀は、結局のところ我々が保有している。家計の純資産が増えたように見えても、このプログラムは実は、我々が我々に、カネを配っているに過ぎない。では、どのように帳尻は合うのだろうか。どこで実質的に我々のカネは「減る」のだろうか。あるいはこのとき結果的に、誰から誰にカネは移転されるだろうか。