白バラ四姉妹殺人事件 / デュラスの映画 / CARLOS D'ALESSIO

近所のイタリアンで、合格点のキャベツ入りのボロネーゼを食べ、胃が痛むのでコーヒーはアメリカンでお願いし、勘定を済ませて店を出ようとして扉の前に立つのですが、どうここを出ればいいのか思い出せないのです。ドアノブがない。自動ドアでもない。謎は何もなく、ただ押すだけで開く扉だったので、ドアノブのところには板が貼ってあるだけで、もちろんそれは一つの記号なのですけれど、私は読み取れず、一瞬途方にくれ立ち止まるのです。こうした瞬間に、精神は病んでいくのだと思います。ドアの外は午後二時の日差しでした。

今日のランチの読書は鹿島田真希の「白バラ四姉妹殺人事件」でした。

白バラ四姉妹殺人事件

白バラ四姉妹殺人事件

マルグリット・デュラスの映画*1を思い浮かべながら読むわけです(直接的にデュラスを意識した作品ですから)。精神を半ば病んでいる母親、その娘(姉)と息子(弟)のダイアローグとモノローグが、入れ替わり立ち代り現れます。彼らは、自分たちの抱えこんでいる愛と混乱を、同じ町で起こった母親と四姉妹と長女の婚約者をめぐる事件になぞらえながら語ります。しかし、他方で母親は昔、韓国居酒屋であるバイトをしていたと語られるし、母と姉弟で遊びにいった思い出は日本の野球場だったり、テレビで見る番組もワイドショーだったりして、どこかしらデュラスの世界から外れていて、もちろんフランスの男女もデュラスの描く男女のように恋愛の会話をしているとは思えないわけですが、それにしても日本に移植した際の違和感はぬぐえず、もしかしたら今の日本には、岡田時彦のようにフランスの女優をときめかせるような男性はおらず、これはやはり日本ローカルなパロディであって、その無残さも引き受けているのかもしれません。

二十四時間の情事 [DVD]

二十四時間の情事 [DVD]

ただ、だからこそこの小説を映像化すると面白そうだと読みながらずっと思っていて、それもまったく同じ原作を、物語は変えずに2種類の映像で撮ってみたい、とか思うのでした。1つは、デュラスの映画そのままに、ダイアローグとモノローグが、画面に浮遊するように、トラックの荷台から東京の高速道路をさまようように流れ続ける、原作の男女のやり取りを、一言一句変えずに、抜粋し、構成する、そんな作品。もう一つは、一種のパロディとしてのこの作品のやり取りを、もう一度翻訳しなおして、とはいえ現代の都市生活者の浮遊感はそのままに、「珈琲時光」や「UNLOVED」の男女のような、リアルな身体が存在自体の浮遊感によって抽象性を帯びるように描く作品。その二つは、同じ物語ながら当然抜き出すべき箇所も違うし、重視されるところも違っていて、けれど、安易にどちらかは男性視点とかどちらかは女性視点とかにはならないように注意して、どちらがどちらのパロディなのかわからなくなるような揺らぎをこめて併置したい。と、夢想するのでした。

そういえばマルグリット・デュラスの映画には、「インディア・ソング」(1974)の音だけをそのまま使い、まったく別の映像を当てた「インディア・ソング」の姉妹作がありました。「ヴェネツィア時代の彼女の名前」というとても美しい作品です。「インディア・ソング」でまだかろうじて身体を残していた人々が、もうすっかり姿を留める能力を無くしてしまい、記憶の響きとなって、もはやすべての物語が終わったあととして無人の風景や廃墟の中でこだましているような映画です。

インディア・ソング [DVD]

インディア・ソング [DVD]

「白バラ四姉妹殺人事件」は、姉と弟の恋愛という点で、直接的には兄妹の恋愛のダイアローグを描いた映画「アガタ」を思い出させます(小説は、読んでいません)。「アガタ」もとても美しい映画で、デュラスの作品では「トラック」と並び、DVDが出たら是非欲しい映画なのですけれど、日本公開したものの、その後ソフト化の動きが止まってしまっているのでした。悲しい限りなのです。

とか書いているうちに、昨日の続きでBGMはナム・ジュン・パイクだったのですが、カルロス・ダレッシオの「インディア・ソング」サントラが聴きたくなってきました。聴きながら眠れば、良い夢が見られそうですし、夏の終盤にもぴったりです。

インディア・ソング

インディア・ソング

*1:まったく読書家ではない私は、映画がデュラスのイメージなのです。