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岡田時彦

(映画)
おかだときひこ

(1903-1934)
1903年2月18日、東京・神田生まれ。サイレント映画時代を代表する二枚目俳優。
文筆にも秀でた才能があり、『新青年』『文藝倶楽部』などの文芸誌や映画雑誌にも数多く寄稿、自伝的著作『春秋満保魯志草紙』(前衛書房、1928年)もある。本名は高橋英一、愛称は「英パン」(エーパン)。

父の放浪癖のため、幼いころから川崎に3年、茅ヶ崎に1年、その後逗子に移るなど各地を転々とする。友人もなく孤独な少年だった。逗子開成中学には抜群の成績で入学するも、伊勢佐木町のオデオン座で観た『名金』に感動して、やがて学業そっちのけで浅草六区にまで足を伸ばす程映画に熱中するようになり、家族の猛反対を押し切って映画の道へと進む。

谷崎潤一郎が脚本を手がけたトーマス栗原監督作品『アマチュア倶楽部』(1920)でデビュー、谷崎夫人の妹で当時谷崎の愛人だった葉山三千子と共演する。芸名「岡田時彦」は谷崎が名付け親。マキノ映画製作所、帝国キネマなどを経て、1925年に日活に移籍、溝口健二監督作品『紙人形の春の囁き』(1926)『日本橋』(1929)、阿部豊監督作品『足にさはった女』(1926・キネ旬第一位)や『彼を繞る(めぐる)五人の女』(1927・キネ旬第二位)などに出演する。とりわけ、モダンでスマートな阿部豊監督作品にて近代的知性と憂鬱を漂わせた繊細な演技を披露、1927年度の『映画時代』ファン投票では阪東妻三郎に400票以上も差を付けて第一位に輝き名実共にトップスターの座を獲得する。

1929年に高田稔の誘いもあって松竹入りし、清水宏監督作品『戀愛第一課』(1929)や小津安二郎監督作品『その夜の妻』『お嬢さん』(共に1930)『淑女と髯』『美人哀愁』『東京の合唱』(すべて1931)などに相次いで出演して、松竹蒲田お得意の哀愁とユーモアをたたえた小市民喜劇においてもその才能を発揮するが、同年9月の鈴木伝明の解雇を発端に松竹を出て、鈴木伝明、高田稔、渡辺篤ら十数名と共に不二映画社を設立。会社は川口松太郎を企画部に迎えるも、短命に終わる。翌年、新興キネマに移り溝口健二監督作品『瀧の白糸』『祇園祭』(共に1933)などに出演するが、この頃から持病だった結核が悪化著しくなり、その年の12月には大阪の赤十字病院に入院。年末にいったん小康を得たものの、ついに明けて1934年1月16日、西宮市外夙川の寓居でわずか30年の短い生涯を終えた。葬儀の際には、谷崎潤一郎が弔辞を読み、その文章「岡田時彦弔辞」は全集にも収録されている。また、当時、『祇園際』に引き続いて『神風連』(1934)でも入江たか子の相手役として主役に考えていた溝口健二監督は、病に臥せっている彼の回復を二月のあいだ待ったが、ついにあきらめて月形龍之介で撮影を開始したというエピソードが残っている。

女優の岡田茉莉子は実の娘。


<フィルムが現存している出演作品>

池田富保『続水戸黄門』(1928)
小津安二郎『その夜の妻』(1930)
牛原虚彦『若者よ何故泣くか』(1930)
小津安二郎『淑女と髯」(1931)
島津保次郎『愛よ人類と共にあれ』(1931)
小津安二郎『東京の合唱』(1931)
溝口健二『瀧の白糸』(1933)

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