馬鹿とcrazyの間

馬鹿とcrazyは違うのでは?というツッコミをいただいた。そのとおりである。同じように「世界を変える」と大言壮語しても、ジム・クラークのように本当に世界を変えてしまう奴(以下ジム・クラーク)と窪塚洋介のように何ら実効性のあるプランを持たずに理想を言うだけの奴(以下クボヅカ)がいる。

だから、エンジェル(ベンチャー企業相手の金貸し)という商売は簡単である。資金を用意して事務所をかまえて、野心あふれる若き起業家が「世界を変えるので金貸してください」と言ってくるのを待つ。やってきたらまず「あなたはジム・クラークですかクボヅカですか?」と聞く。そして、ジム・クラークと答えた奴だけに金を貸していけばよい。数年で大金持ちになれる。

だが、実際にやってみると問題が三点ある

アメリカの評価すべき所は、これを現実として受けいれていることだ。クボヅカを拒否したらジム・クラークを失なうことを知っている。その知識が倫理に組みこまれていて、国民に浸透している。理屈だけでなく、エンジェルというシステムがあって機能している。

エンジェルは、実際には999人のクボヅカと1人のジム・クラークに金を貸す。クボヅカに貸した分は全てパーになるが、ジム・クラークに貸した分が数千倍、数万倍になり元を取れる。砂金をすくうようなそういう商売が現実にあるのだ。

日本人は、クボヅカとジム・クラークを別のカテゴリに入れて、後者だけに金を貸そうとする。富士山の山頂だけ注文するようなものだ。頂上だけ持ってきて どこかに据え付けたらそれは富士山ではない。クボヅカという裾野から積みあげなければジム・クラークという頂上は得られない。

「クボヅカには金を貸したくない」というのは、損得の問題ではないと思う。実際、アメリカではエンジェル自身もトータルで儲けているのだから。損得の問題でなく、クボヅカのような奴が嫌いだからそういう奴に金を貸したくないのだ。だから、倫理をいじって馬鹿をもっと供給しろと俺は言っている。

クボヅカとessaの間

otsuneさんがおっしゃるように比喩というのは危険な武器である。俺なんか、この武器をむやみと振り回し無差別にあちこちに切りつける。テロリストか通り魔のようなものだ。

だがそんな俺でも、「クボヅカ」という単語を使わずに前項の内容を書けと言われたらとちょっと困る。最近この単語をたくさん使っているが、実際、クボヅカという概念は便利だ。窪塚洋介は身をもって、この有用なクボヅカという概念を世界に提供している。そのことだけでも偉い奴だと思う。こういう奴がもっと増えればいいと思う。

そこで突然だが、クボヅカと俺の共通点。

  • 神との対話のような本を読んで書いてあることをまにうけてしまう
  • 熟慮の量が一般人より少ない
  • 頭髪の量も一般人より少ない

相異点。

  • 俺には、今のところはまだ頭髪がある
  • 彼における頭髪の不足は自発的な意思に基づくものだが、俺の場合は不可避な運命的な事情に由来する

他にもあるかもしれないが、残りは省略する。

実際、俺はクボヅカともジム・クラークとも連続性を感じている。俺のどこかのツマミをもっと極端な位置に回せばクボヅカになり、別のツマミを回せばジム・クラークになると思っている。なれるなれないではなく、同じカテゴリの中の量的な違いだと思っている。量的な違いは大きいとは思うが。

それで、クボヅカとジム・クラークを別カテゴリに入れられると困るのだ。中間にいる俺は、両者の間で引き裂かれて無になってしまう。俺にとってこれはアイデンティティにかかわる問題なのである。

茂木健一郎氏の「帝国」書評

  • この「帝国」という本は政治哲学書としてはイイけど、いくらなんでもITオンチ杉
  • でも一方でIT評論家は政治哲学オンチ杉(「人間の欲望、愛、憎しみの基本的あり方」が変わるわけじゃないので)

でどっちもダメダメだそうです。ではどしたらいいのか。


人類の築き上げてきた様々な知の領域の間で「虹の連帯」を組む必要がある

そりゃそうだ、でもどうやって?


(その答えは)インターネット上に「マルチチュード」によって書き込まれる様々なテクストの間から生まれてくることになるのかもしれない。

えっ、ここのことか?・・・なんちゃって。

街を歩いていて知らない奴に突然「おおい」と声をかけられてアセったら、実は自分の背後にそいつの友達がいたなんてことがあるけど、俺もここ読んで「俺のことか」と一瞬ドキっとしたのだが、実は俺の背後のリンク元やリンク先に対象者がたくさんいるような気がする。これのネタ元の 幻燈稗史もそうだったりして。

朝日新聞社の謝罪文に虚偽の疑い

朝日新聞社資料を断りなくメモという実質的に公式の謝罪文で嘘をついた可能性がある。あまり報道されてないが、これは大事件だと思う。


曽我ひとみさんの北朝鮮に住む家族の詳細な住所を朝日新聞が報じた問題で、本社は17日、報道の経緯の調査を終えた。

会社として調査した上で次のように言っている。


取材先は机の上にファイルを広げ、報道機関からの問い合わせなど、電話の応対に忙殺されていた。ファイルには封書の表書きのコピーがあった。記者は取材先の横に立ち、差出人の住所などをメモした。

確かに「記者が封書からメモした」と書いてある。これが嘘なのだ。なぜかと言うと、封筒の住所は朝鮮語であって記者には読めないからだ。まるでコナン君のような話だが言われてみればそのとおりだ。

表だって言ってないが、それを暗に徹底追及しているのが家族会からの抗議文である。

  • 記者は朝鮮語を読めるのか
  • 誰が翻訳したのか

という二点の質問が冒頭に来ている。普通に考えれば、むしろ次のような質問の方が重要なはずだがこれは後回しだ。

  • チェック者が、住所掲載について曽我さんの同意を得たか確認したのか
  • 抗議を受けるまで、住所掲載が重大な人権侵害と気づかなかった理由

なぜ、家族会が朝鮮語の翻訳という問題にこだわるのか?おそらくは、該当の記者を個人的に知っており、朝鮮語を読めないこと=(謝罪文の嘘)を承知しているからだ。そうでなければ「記者が自分で翻訳しました」で終わりだ。

それともうひとつ、ここからは想像だが、実は問題の住所を別ルートから入手した可能性を見ているのではないか。

すなわち、北朝鮮あるいは朝鮮総連に別の取材ソースがあって、実はそちらから住所を入手している。ということは、公開はその取材元の意向を受けたもの=完全に意図的なもの=報復の意味となる。その可能性を疑って質問項目の冒頭に上記の質問が来ているのではないか?

そうでなくても、協力者(翻訳者)がいて翻訳したのはほぼ確かなので、その協力者の存在をなぜ隠したのかという疑問が残る。非常に重要な問題をはらんでいると思う。

PCR法の偽陰性について


ここ一週間の台湾の医師の問題で、運転手さんがPCR法を一度週明けに行いましたが、その結果が陰性であったことで、厚生労働省は「可能性は非常に低い」と発言し、また、一部の報道機関が「感染していなかった」などと報道したことを受け、トピックスページを作りました。このテストは偽陰性(陽性なのに陰性と出ること)が多く、テストを重ねて精度を向上させることが必要とWHOは述べています。

だそうです。