佐藤次郎 / 義足ランナー


“義足ランナー”で検索すると、南アフリカの「義足ランナー恋人射殺事件」のタイトルがずらずら表示される。固有名詞より先に「義足ランナー」のキーワード。事件の顛末はともかく、容疑者の男が身体障害者陸上競技T42クラスで成し遂げたことがどれだけ理解されているだろう。
パラリンピックが生んだスーパースターのスキャンダルとダブるという不運なタイミングで刊行された本書。そこにはエリートランナーの暗部とは無縁の、そして彼、かつてのオスカー・ピストリウスもきっと感じたであろう「ただ走ること」の純粋な感動が記されていた。
花粉症でもないのに鼻の奥がつーんとしっぱなし。本年ベストの一冊!



佐藤次郎 / 義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦 / 東京書籍 (274P) ・ 2013年 1月(130302-0306) 】



・内容
 日本では二十年前までは義足で「走る」ということはナンセンスであった。医師、理学療法士には「できるわけがない」とされていた。ましてや陸上競技などバカげた事であった― 本書は、義足で走る活動を独力で切り開いてきた一人の義肢装具士と、あらゆる困難を乗り越えてアスリートとなっていった義足ランナーたちの奮闘を克明に伝えるヒューマンストーリーである。


          


病気や事故で足を失っても、義足を使うことである程度は以前と同じ生活に戻ることはできる。ただ、もう走ることはできない。どんなに義足に慣れて使いこなせるようになっても、「ひざ折れ」の不安は終始つきまとう。無理に走ろうとすれば転倒したり、必需品の義足を壊すことにもなりかねない。生きていくことはできるのだから、走るのはあきらめるしかない。
そんな障がい者の常識を覆す活動を始めたのが鉄道弘済会義肢装具士・臼井二美男(うすいふみお)だった。義足でだって走れるのではないか。走れるようになれば、義足使用者の人生は変わるのではないか。パーツの研究と改良を重ね、患者に走ってみないかと声をかけ、練習会にやってきた有志に取り寄せた「板バネ」(競技用義足)を試した。
1990年代からの彼の活動は徐々に、しかし着実に実を結び、2000年シドニー、2004年アテネパラリンピックに出場する選手を輩出するまでになっていく。

 〈みんなが走れるようになるのを見ているだけで嬉しくなっちゃうな〉 それが臼井の気持ちだった。競技だの、パラリンピックだのは二の次、三の次だったのである。
 ただ、そうはいっても、「もっと速く走ってみたい」「自分がどこまで走れるのか、できることなら挑戦してみたい」という願いは、義足の人々の間にひっそりと、だが思った以上に色濃く流れているようだった。金子順治はその代表例といってよかった。何かのきっかけさえあれば、一気に突っ走ろうとする魂があちこちに隠れているにちがいなかった。


一人ひとりに合わせた義足をつくり、細かい調整を施す臼井の仕事を縦糸に、一度は走ることをあきらめた障がい者たちが臼井と出会って再び「走れる喜び」をかみしめる、それぞれの姿を横糸に織りこんでいく。
端的にいってしまえば、義足は日常生活の運動機能を補助する道具だが、「走る」のは悲運を乗り越えようとする強い意思の表明であり、それはその命を新たに生まれ変わらせ、より輝かす、ということのようである。
ひざ下、あるいは大腿部を切断した者が再び走るには何が必要か。まず、走ろうとする意欲。健足側だけでなく義足側に残った筋力の強化、義足で強く蹴って反発を得る感覚の習得、恐怖心とコンプレックスの克服、下肢を人目にさらす勇気。肉体の鍛錬と同時に、精神も強くあらねばならない。
走れるようになると、もっと速く、もっと滑らかにきれいに走りたいと欲が増す。足を失って以来、極力外出を避け、人目も避ける生活をしていたときには思いもしなかった世界が拓けてくる。義足も自分の血が流れている足だという感覚が強まってくる。そうして早歩きから始めたランナーがスプリンターになり、日本を代表する義肢選手が生まれていったのだった。



紹介されているランナーがすごいのは、彼らの多くが足を切断してから初めて競技に取り組んだ人たちだということである。それまではスポーツとは無縁だった人もいるし、義足に慣れることができず松葉杖に頼っていた人もいるのだった。
喪失感や諦念が当たり前の、歩くのにさえストレスを感じる人生を、ランニングが生まれ変わらせる。おそるおそる一歩を踏み出し、断端と装具の感触を確かめながらもう一歩を出してみる。ぎこちない小走りでも、頬や耳に流れる風の感触は懐かしく、また新鮮だ。血液が温度を上げて体内を駆けめぐり、眠っていた全身の細胞が動き出すのが感じられる。そのみずみずしい感覚は、とりあえずは両足とも健常の自分にもビンビン伝わってきた。
臼井のもとにやって来るのは競技志向の人ばかりではないが、義足でも運動できることを知った人々は、明るく積極的に変わっていくのだった。そして、彼らは必ず先駆者の自覚に目ざめて、後に続く者たちのために道を拓こうとする使命感も自ずと芽ばえてくるのであった。

 脚を失って、いったんはあきらめた走りを再び取り戻した人々は、まったく同じことを口々に語る。「ほおを吹きすぎていく風がなにより気持ちよかった」「風を感じたのが一番嬉しかった」
 再び走れるようになった証明。それが「風」なのだ。村上清加もこうして待ちかねた瞬間を迎えたのだった。


著者は東京新聞編集・論説委員。運動部時代にはオリンピック取材も数多くこなしてきた記者だ。だから文章は新聞調というか、朝刊第二社会面に載る特集記事みたいである。主観を抑えて情緒的になりすぎず、過不足のない的確な説明が重ねられていく。それが良かった。対象に近づきすぎず、離れすぎず。さすがに報道畑のプロの文章である。
肉体の一部を失くした人が再び走り始める。日本の障がい者スポーツの先駆けとなった何人かが紹介されているのだが、本書全体を通して、無限の可能性を秘めた一人の人間像が、自由を謳歌する雄々しき開拓者の姿が、くっきりと浮かび上がってくるような錯覚があった。ささやかな不屈、再起、新生、転機、解放の、清々しいドキュメンタリーだった。
臼井氏は義足の専門家ではあるけれど、陸上経験者ではないし、医学や工学に詳しいわけでもない。ただ直感で、障がい者も走った方が良いと考えたのだ。そして、実際に走り競いあうことで肉体は強くなり、免疫力も高まって、健康が増進する。またその変化が自信を与え、実生活の各方面にも良い影響を与えていく。
考えてみれば、それは健常者だってまったく同じなのである。「走った方がいい」― ずいぶん単純だけど、でも、人間存在の真理に関わる答えの一つを見たような気がしてきて、ちょっと嬉しくなったのである。
正直に書けば、「義足ランナー」と聞けば、自分だってまっさきにあの疾走するオスカー・ピストリウスの雄姿を思いうかべるし、SF的興味から人体とカーボン素材が融合した‘新種’の人間の姿を ―アンドロイド的人間を― 想像したりもしたのだ。だが、ここに登場するのは、どこまでも人間臭く、けして人間をやめない人たちで、それはそれは嬉しい誤算だった。躍動させてこその生命(いのち)なのである。


これを読めばきっと誰でも走りたくなるだろう。  自分はオオカミなのでその気になればいくらでも走れ   今日は風が強かったのでやめておいたが、明日は軽く20キロぐらいは流してくるつもりだ。
走るかわりに懐かしい、大好きだった本を引っぱり出してきた。引間徹『19分25秒』(集英社、1994年)、我が青春の一冊である。深夜の公園、漆黒の闇をさくりと切り開いて現れた‘あいつ’もカーボンファイバーの脚を持っていたっけ!